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能天気の子?──再考『天気の子』



 前回記事“信じる? 疾走する愛を──『天気の子』とカラックス映画”で、私はレオス・カラックス監督『ポンヌフの恋人』との類似性から新海誠監督『天気の子』を読み解こうとした。それはそれで面白い考察になったとは思うが、そのせいで『天気の子』という作品をかなり曲解してしまったようにも思うので、その反省も込めて、ここで補足を入れておきたい。

※以下の記述は前回記事を読み通した熱心な(かつ、暇な)映画ファン向けのものです


 前回、私は『ポンヌフの恋人』との比較から、もっぱら主人公帆高が抱えるエゴイズム(内なる貧しさ)に注目した。が、それと並行してもうひとつ、『天気の子』は“個人 vs 社会”という大きなテーマを扱っている。並行して、と言うか、“エゴイズム”はそこから派生する単なるサブテーマに過ぎず、新海監督はむしろ“個人 vs 社会”という点にこそフォーカスを合わせているように思われる。この構図は『ポンヌフの恋人』には見られないものである。

 『天気の子』における“個人 vs 社会”の構図とは、要するに、陽菜の命を優先する帆高 vs 陽菜ひとりを犠牲にして東京を守るべきだと考える大多数、という対立関係のことである(但し、実際に劇中で対立しているわけではなく、飽くまで結果的にそういう構図になっている)。人々の最大公約数的な幸福を優先する“社会”に抗って、帆高は陽菜の命を救う。このプロットには、常に空気を読むことを求め、いわゆる同調圧力によって個人の思いが押し潰されがちな(日本の)現代社会に対する反発意識と、世界を敵に回してでも“愛”(自分のセカイ、自分にとっての真実)を手放すな、と若者を応援する新海監督の気持ちが反映されているように思われる。そうでなければ、やはりあのラストシーンの強い肯定とあまりの晴れやかさは腑に落ちない。

 しかし、この“個人 vs 社会”という構図には粗がある。帆高は、陽菜を助けて東京を水没させようとしているから社会と対立する(警察に追われる)わけではなく、ただ単に銃の不法所持と家出という理由によって対立している。そして、そのただ単純な刑法上の対立が、ラストで“集団を重んじる息苦しい社会”との対立にすり替えられてしまう。だから、『天気の子』は混乱を招くのである。

 同じ指摘をしている人は他にもいる。以下、私が特に同感した2人の映画ファンの意見を紹介しておきたい。一人は、鋭い視点と映画愛溢れる熱い弁舌でお馴染みのライムスター宇多丸氏。もう一人は、映画.comにレビューを投稿していたkenken0133という一般の方である。

「帆高くんが社会と対立する理由がですね、要は“拳銃を拾って発砲しちゃった”っていうことと、そもそも家出中であるっていうことでの、社会との対立。警察に追っかけられるわけですね。つまりそれは、その陽菜さんと一緒に選びとったこと、晴れ女活動のツケ、という件とは、直接関係がないんですよ。僕はこれゆえにですね、クライマックスに向けた警察とのすったもんだとか、あとはそのオトナコドモ的な立場の須賀さんとの言い合いっていうのが、テーマに対して、ピントがずれちゃってるっていうか、正直ちょっとイライラしちゃったんですね。(中略)僕はこれはもっとストレートに、やっぱり陽菜さんの晴れ女活動そのものが社会と対立する、っていう構図でよかったでしょう?って思うんですよね。そうじゃないから、なんかちょっとピントがずれてる気がして、クライマックス周りでなんかモヤッたりする」──ライムスター宇多丸(2019年7月26日放送、TBSラジオ「アフター6ジャンクション」

「陽菜が人柱になることで、帆高は社会に対して感情をあらわにします。そして、最大多数の最大幸福で出来ている社会に対しての反発の様に描かれています。
 社会を救う為に、陽菜という人柱を神に捧げて助けを求めたが、それを帆高が救うという、まるでヤマタノオロチ的な展開の話の様な印象を受けてしまいがちですが。実は、そんなヤマタノオロチ的な展開にはなっていないんです。そう、陽菜は社会を救う為に、社会から求められて人柱になったわけではありません。
 陽菜は自分の母親に晴れを見せたいという極めて個人的な欲求から晴れ女になってしまったのであって、社会が求めていたわけではない。そして、社会(警察)が帆高をつかまえようとするのは、陽菜が人柱となるのを妨げるような行動を抑制しようとしているのではなく、帆高が法律を犯しているからです(拳銃所持・発砲)また、家出で捜索願いが出ているからでしょう。
 これに対して帆高が社会に怒りをぶつけるのは、まったくの筋違いで、本来怒りの矛先は、社会ではなく、晴れ女=人柱という神のルール、その不条理さに対して向けられるべきなんです。そこには、まったく触れないどころか、“僕たちは選んだんだ”と言ってしまうあたりが、どうしても気持ちが悪いんですよね」──kenken0133(2019年9月1日投稿、映画.com

 このkenken0133という人は、帆高の愛読書が『ライ麦畑でつかまえて』であることに注目し、帆高少年を助ける須賀圭介こそが実はライ麦畑のキャッチャー(捕まえ手)ではないのか、という指摘もしている。言われてみれば確かにその通りだ。これは目から鱗だった。

 あと、何だかんでよく考えると、帆高自身が結局は何も失わず、最後まで無傷でいる点。宇多丸氏はこの点もしっかり突っ込んでいる。

「ヒロインの陽菜さん。彼女がですね、結局その、いろんな業を1人で背負っちゃってるわけですけど、彼女がひたすら帆高くんの行動を許し、その選択を受け入れていくことで、初めて成り立ってる話なわけですね。 ちょっとだから陽菜さんは、不自然なほど帆高を受け入れるし、許すんですよ。あまつさえ、彼女がその犠牲を自ら払うことになっているのに、“いや、ありがとう”みたいなことまで言うんですよ。“気にしないで。むしろ、ありがとう”みたいな。なんかすごく帆高くんに都合のいいことを、常に言ってくれる人になってるわけです。で、最終的に、じゃあ逆に帆高くん自身は、なにを犠牲にして、なにをしたんだっけ?って考えると……実はなにも、っていう話にも見えちゃうんですよね。 非常に理想化された他者っていうのを置くんだけど、それって<他者>なんですかね?っていう感じにもなる。そういう結末の甘さというか、それがすごく僕は気になりました」──ライムスター宇多丸(同上)

 これは『ポンヌフの恋人』と比較しても強く感じることである。映画終盤、眼が治ることを知ったミシェルは、アレックスをあっさりと捨てる。絶望したアレックスは、拳銃で自らの指を吹っ飛ばす。一生治ることがないその肉体的な重傷は、そのまま彼が心に負った精神的な傷の深さを表している。エゴとエゴのぶつかり合い、他者というものの残酷さもしっかりと描いた『ポンヌフの恋人』に比べると、『天気の子』の結末はいかにも能天気に感じられる(能天気の子?)。

 似ている点は多々あるが、2つはやはり似て非なる作品と言うべきかもしれない。

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