2019 09123456789101112131415161718192021222324252627282930312019 11

PREV | PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

信じる? 疾走する愛を──『天気の子』とカラックス映画




 9月某日(晴れ)、新宿バルト9にて新海誠監督『天気の子』を鑑賞。

 なるほど、これは若者にはたまらんだろうな……と思いながら鑑賞後に評判をチェックしてみると、意外にもこんな話が。

「『天気の子』は、若者より年配者の方が高評価という面白い現象が起きています。そもそもアニメ好きの今の若者は見る目が厳しい。設定に不備があると『甘い』などと批判的になる。その点、最近のアニメの知識がない中高年は、細かい設定の不備など気にせず、感情的な部分を大事にします。青春ドラマとか映画にも慣れているので、多少の矛盾があっても『青春映画ってそういうものだろ』と素直に受け入れられるようですね」──モルモット吉田(2019年8月29日、日刊ゲンダイDIGITAL)

 どうやら私もその一人のようだ。


Carax3.jpg
『ポンヌフの恋人』

 『天気の子』は、レオス・カラックス監督『ポンヌフの恋人』(1991)の舞台を’19年の東京に置き換えたような映画だった。

 『ポンヌフの恋人』は、パリを舞台に孤独な青年アレックス(ドニ・ラヴァン)と失明寸前の女子画学生ミシェル(ジュリエット・ビノシュ)の純愛を描いた青春映画。’92年の日本公開時、東京の上映館だった渋谷シネマライズには連日多くの観客がつめかけ(私もその一人だった)、27週ロングランの特大ヒットを記録した。映画好きの若者だったら、当時ほぼ100%の確率で観ているだろう有名作である。

 『ポンヌフの恋人』と『天気の子』はいずれも純愛映画ではあるが、誰もが納得するような生易しい恋愛ものではない。あまりにも純粋すぎて常識的な倫理の枠を逸脱してしまっているため、観る人によってかなり賛否が分かれる類の作品である。以下、両者の主な類似点を挙げていく。

※順を追って明らかにするが、『ポンヌフの恋人』は『天気の子』の原点とも言うべき作品である。以下の記述は読者が両作品を観ていることを前提に完全にネタバレ進行するので、『ポンヌフの恋人』未見の若者には実際に映画を鑑賞してから本記事を読むことを強くお勧めします。


主人公男女が極貧(ホームレス)

Carax4.jpg
『ポンヌフの恋人』──家なし、金なし。2人には“愛”しかない

 『ポンヌフの恋人』の主人公アレックスは天涯孤独のホームレス。ヒロインの画学生ミシェルは空軍大佐の娘で、実家は裕福だが、失明の危機と失恋の痛手のため自暴自棄になり、家出して路上生活を送っている。一方、『天気の子』の主人公帆高は、伊豆諸島から単身上京してネットカフェで暮らす家出少年。ヒロインの陽菜は親を亡くした貧しい少女。彼女は小学生の弟とアパートで細々と暮らしているが、映画後半にはそこも捨てて帆高と共に実質ホームレス状態になる。『ポンヌフの恋人』『天気の子』、いずれのカップルも極貧という同じ境遇の下で出会う。


大いなる病い(運命)を背負ったヒロイン

Carax5.jpg
『ポンヌフの恋人』──視力を失っていくミシェルに寄り添うアレックス(クリックすると彼の心の声が聞けます)

 ミシェルは重い眼病を患い、徐々に視力を失いつつある。彼女が人生に絶望してそれまでの暮らしを捨てたからこそ、アレックスはミシェルと出会うことができた。2人を結びつけたその大いなる病い(運命)は、しかし、後に2人を引き裂くことにもなる。『天気の子』の陽菜は、祈ると天気を一時的・局地的に晴れにできる特殊能力の持ち主。その能力は帆高と陽菜を結びつけるが、それは自らの命と引き換えに手にできたものであり、陽菜は徐々に死に向かうことになる。これも一種の病いと言っていいだろう。アレックスと帆高は、愛する少女を自分のもとに繋ぎとめるため、いずれも映画後半でその運命に必死に抗う。


主人公に寄り添う疑似家族

Carax6.jpg
『ポンヌフの恋人』──アレックス(手前)と、その未来の姿と言うべきハンス(右奥)

 アレックスには寝ぐらを共にするハンスという初老のホームレス仲間がいる。ハンスはアレックスにとって仮の父親のような存在だが、暗い過去を背負った不完全な(挫折した)大人である。彼はアレックスとミシェルに自分の過去を重ね見て複雑な思いを抱く。『天気の子』にも須賀圭介というよく似た役回りの中年男性が登場する(ハンスと同じく妻と死別している)。圭介の他にも、帆高には夏美(圭介の姪)と凪(陽菜の弟)という疑似家族がいるが、重要なのはやはり圭介の存在だろう。ハンスと同様、彼は帆高の父親代わりであり、一種の反面教師でもある。


リアルな舞台背景

Carax7.jpg
南仏ランサルグ村に建造されたポンヌフの実寸大オープンセット

 『ポンヌフの恋人』の主要舞台は、セーヌ川に架かるパリ最古の橋、ポンヌフ(仏語で“新橋”の意)。時期はフランス革命200年祭(’89年7月14日)が行われた’89年夏に設定されている(映画は’87年11月に制作が始まり、もともと’89年の公開を予定していた)。アレックスたちが寝ぐらにするポンヌフは、劇中では改修工事のため’89年から’91年まで全面閉鎖中ということになっている。撮影は南仏の田舎に作られたポンヌフの実寸大セットで行われ、画面内にはリアルなパリの光景が広がる。ポンヌフの他にも、劇中にはルーヴル美術館、リュクサンブール公園、モンパルナスの地下道、カフェ・ボーブールなど、実在するパリのスポットがいくつも登場する。『ポンヌフの恋人』を観たパリっ子たちは、そこに登場するお馴染みの風景に興奮しただろう。

 『天気の子』も同じように実在の都市=東京を舞台にし、新宿を中心にその街並みを非常にリアルに描いている。舞台背景が徹底的にリアルでありながら、登場人物たちの佇まいが妙に漫画めいている点も『ポンヌフの恋人』と共通する。アレックスとミシェルは現実世界に紛れ込んだお伽話のキャラのようで(2人が酔い潰れてラフィング・ノーム化する場面、花火の下で踊ったり水上スキーを楽しむ場面などにそれは強く感じられる。ドニ・ラヴァンのアクロバティックな動きが漫画的であることは言うまでもない)、その幻想性は、浮浪者収容施設をドキュメンタリー・タッチで捉えた映画冒頭場面の現実性とも対比され、映画全体に夢とも現実ともつかない独特の寓話的な趣きを与えている。“晴れ女”という一種の土着信仰(幻想)を現代のリアルな東京に持ってきた『天気の子』にも、全く同じことが言えると思う。

 実写映画である『ポンヌフの恋人』は、画面内にリアルなパリを再現するために莫大な資金と多大な労力を要したが、『天気の子』はアニメ映画の特性を十二分に活かし、『ポンヌフの恋人』以上に実在の都市を活写することに成功している。帆高が白昼に山手線の線路上を疾走する場面や、水没した東京の光景などは実写ではとても描けない。私たち観客が住んでいる街がとんでもないことになってしまう『天気の子』には、パニック映画や怪獣映画にも通じるスペクタクル性があり、それだけでも娯楽映画として十分に楽しめる。


奇妙な稼業

Carax8.jpg
『ポンヌフの恋人』──客の飲み物に混入される睡眠薬

 陽菜の特殊能力を活かし、帆高と陽菜は依頼に応じて特定の時間と場所を100%晴れにする“晴れ女”ビジネスを始め、順調に収入を得ていく。アレックスとミシェルも2人で協力して金を稼ぐ。カフェで客の飲み物にこっそり睡眠薬を入れて眠らせ、その隙に金をかっぱらうというのが彼らの稼ぎ方。『ポンヌフの恋人』の場合、ビジネスではなくはっきりと犯罪だが、いずれにせよ、力を合わせて糧を得る過程で彼らは絆を深めていく。


花火

Carax9.jpg
『ポンヌフの恋人』──ポンヌフから花火を見上げるアレックスとミシェル

 革命記念日の夜、アレックスとミシェルが満天の花火の下で踊り狂う場面は、『ポンヌフの恋人』の最大のハイライトのひとつである。『天気の子』にも美しい花火の場面が登場する。夜空に散開する花火を間近から捉えた空撮場面にもアニメ映画ならではのダイナミズムがあった。花火は主人公男女の激しい恋の煌めきを表すと同時に、その儚さを暗示しているだろう。


拳銃

Carax10.jpg
『ポンヌフの恋人』──ミシェルの画材箱に隠された拳銃

 『ポンヌフの恋人』では拳銃が効果的に用いられている。ミシェルが携帯していた銃(軍人の父の部屋から持ち出した)は、劇中で3度にわたって発砲される。1度目は、自分を捨てた元カレの眼を(空想の中で)ミシェルがドア越しに撃ち抜く場面。2度目は革命記念日の夜、打ち上がる花火に共鳴してアレックスとミシェルが虚空に向けて交代で乱れ撃ちする場面。3度目は、ミシェルに捨てられたアレックスが弾倉に残っていた最後の1発で自分の指を吹き飛ばす場面。これら3種の発砲場面にはいずれも凄まじいインパクトがある。“拳銃”とは、要するに“手に負えない何か”である。『ポンヌフの恋人』で拳銃は、恋に憑かれた者の狂気や、やり場のない激情を表すメタファーとして機能している。それは恋の相手を傷つけ、最終的に自分をも傷つけるのである(シャーデー・ファンであれば、ここで「Bullet Proof Soul」の一節“Love is a gun”を思い出すかもしれない)

 『天気の子』にも拳銃が登場する。どこかのヤクザが捨てた銃を帆高が街で偶然に拾い、1度目はそれでポン引きを、2度目は自分を追う刑事たちを威嚇する。銃を手にすることには、帆高が社会的な規範から外れていくことを観客に印象づける演出効果があるだろうし、物語の上でもそれによって警察に足がつくなど、劇中で拳銃はそれなりの役割を負ってはいるが、1度目と2度目の登場場面で全く同じ使われ方をしていて(しかも、使い方が普通すぎる)、映画的な面白味には欠ける。あと、銃規制がとてつもなく厳しい東京で、高校1年の坊やが(偶然とはいえ)銃にアクセスしてしまうことの違和感(代わりにナイフを使うとか、帆高に盗みをさせるとか、別の演出を考えるべきだったのでは?)。国柄もあるが、特に『ポンヌフの恋人』と比べると、『天気の子』の拳銃の使い方は私にはちょっと稚拙に思われた。


疾走する愛

Carax11.jpg
『汚れた血』──路上を疾走するアレックス(ドニ・ラヴァン)

 サイレント作品に強い影響を受けているカラックスの映画では、俳優が台詞ではなく身体的演技によって感情を表現する場面が頻出する。『汚れた血』(1986)で夜の路上を踊るように疾走するドニ・ラヴァンを長い横移動で捉えた場面や、滑走路を走るジュリエット・ビノシュの上半身を正面からダイナミックに捉えたラストシーン(本記事冒頭の画像参照)はその最たる例だ。『卒業』(1967)におけるダスティン・ホフマンの疾走場面(教会を目指して走るホフマンを正面からロングで捉えたあの長い長いショット)にも比肩する名場面となったラヴァンの疾走場面は、後にノア・バームバック監督『フランシス・ハ』(2012)や、内田けんじ監督『運命じゃない人』(2005)で焼き直されてもいる(『運命じゃない人』──主人公がヒロインの乗ったタクシーを追いかける場面──は意識的な引用ではないかもしれないが、ラヴァンの疾走場面に酷似していた)。登場人物の激しい衝動や感情的な高ぶりを最もシンプルかつダイレクトに伝える“疾走”というアクションは、『ポンヌフの恋人』でも繰り返し見ることができる。

 『天気の子』にも印象的な疾走場面が登場する。映画終盤、人柱として天空に消えた陽菜を追って、帆高が山手線の線路上をひた走る場面がそれだ(本記事冒頭の画像参照)。この場面は、帆高の頬が血で汚れている点も含め、『汚れた血』のビノシュの疾走場面を彷彿させる。ビノシュは滑走路の上を走り、帆高は線路の上を走っている。彼が目指すのは陽菜が消えた雲の上である。つまり、帆高にとって山手線の線路は滑走路であり、ビノシュと同じく、彼はそこから空に向かって飛び立とうとしているのである。私はこの場面に強い感動を覚えた。

 ついでに指摘すると、警察署から逃走した帆高を、夏美が突然バイクで現れて救出する場面も『汚れた血』的だったりする(『汚れた血』では、犯行現場から逃走して刑事に追われるアレックスを、ジュリー・デルピー演じるリーズが突然バイクで現れて救出する)。これらは偶然の一致だろうか。


自己中心的すぎる主人公

Carax12.jpg
『ポンヌフの恋人』──ミシェルの行方を捜す尋ね人ポスターに火を放つアレックス

 『ポンヌフの恋人』のアレックスは、愛するミシェルを自分のもとに繋ぎとめたい一心で、様々な強硬手段に出る。彼はまず、ミシェルが元カレと再会する機会を全力で潰し、次に、2人でせっかく貯めた金を事故に見せかけて川に捨て、終いには、街中に貼り出されたミシェルの尋ね人ポスター(手術によって眼が治ることを告げている)を、彼女の目に触れさせないよう片っ端から焼き捨てる。

 失恋はミシェルの放浪の大きな要因のひとつである。復縁すればアレックスは自動的に捨てられるので、彼女が元カレと会うことは何としても阻止せねばならない。金を捨てたのは、貧困こそが2人の絆であり、経済的に豊かになればミシェルが自分のもとを去る恐れがあるためである。彼にとって2人に必要なのは、日々の糧を得るための最低限の金であり、大金ではない。眼が治ることをミシェルに知らせたくないのは、言うまでもなく、その病いこそ彼女が彼を必要とする最大の理由だからである。失明が回避できればアレックスという支えは不要になり、彼女は直ちに元の生活に戻るに違いない。眼なんて治らないままでいいんだ!──かくしてアレックスはポスターに火を放つ。彼の思考と行動は愚かなまでに純粋であり、自己中心的と言えばあまりに自己中心的である。

 天界に消えた陽菜を追う帆高。必死の祈りが通じて、彼は雲の上で陽菜と再会する。そしてこう叫ぶ。“青空よりも俺は陽菜がいい、天気なんて狂ったままでいいんだ!”。結果、2人は無事に地上世界へ生還するが、その代償として、東京にはそれから3年も雨が降り続き、街は広い範囲にわたって水没することになる。劇中では描かれないが、水没の過程で都内に多くの被害や犠牲者が出たことは間違いない。帆高の願いもまた自己中心的と言えばあまりに自己中心的だが、しかし、一体誰が彼の思いを否定できるだろうか。もし彼の立場にあったら、誰でも迷わず同じ選択をするはずなのである。正しい/正しくない、の話ではない。『天気の子』のこの顛末は、恋愛というものが本質的にエゴイスティックなものであることを示している。

 帆高の行動に対して“ちょっとは都民のことも考えろ”という批判があるように、アレックスの行動に対しても“そんなのは愛ではない”という否定意見が当然ながらある。全くの正論には違いないが、否定する前にちょっとアレックスの立場になって考えてみよう。その境遇や性格から察するに、多分、彼の人生はずっと土砂降りの雨続きだった。身寄りもなく、住む場所もなく、彼はひたすら雨に打たれてボロ雑巾のように生きてきた。そんな彼の前に現れたミシェルは、彼が人生で初めて見た陽の光である。彼女を失えば、彼の人生に二度と陽は差さない。彼が何としてもミシェルを留まらせたいと思うのは当然のことではないだろうか。彼の行動を正当化するつもりはない。彼の行動は確かに倫理的に間違っている。しかし、私にはどうしても彼の思いを否定することができないのである。“そんなのは愛ではない、真の愛とは相手の幸せを考えることだ”と何の迷いもなく言い切れる人は、恐らく道徳の先生か、それこそ他人の立場を考える力が欠けた人ではないだろうか。

 『ポンヌフの恋人』の脚本を書いたとき、カラックスの頭の片隅には恐らくチャップリン『街の灯』(1931)があったと思う。『街の灯』は、チャップリン演じる浮浪者と盲目の少女の交流を描いた純愛映画である。基本的な設定こそ似ているが、しかし『ポンヌフの恋人』の浮浪者は『街の灯』の浮浪者と真逆のことをやっている。『街の灯』の浮浪者は、盲目の少女(彼のことを立派な身なりの金持ちだと勘違いしている)に献身的に尽くし、素性がバレて振られることを承知の上で、最終的に彼女の眼を治してやる。それにひきかえアレックスは“眼なんて治らないままでいいんだ!”である。身も蓋もなさすぎる。同じ浮浪者でも、一方の心は豊かで、もう一方の心はどこまでも貧しい。

 『街の灯』は倫理的に正しい映画ゆえ、誰もが認める名作として昔から広く親しまれている。一方、カラックスは、倫理的に間違ってでも、自分自身が認めることのできる、完全に偽りのない映画を撮ることを選んだ。“僕たちの一部であるこの世の悲惨さに目をむけることは、芸術家の義務なのだと思う。必要なのは、人間の貧しさを直視する視線であり、社会学的な分析者の視線ではない”とカラックスは語り、自身の映画を“主観的でエモーショナルな立場から自分たちの内なる貧しさを見つめる”ものと説明する。『ポンヌフの恋人』でカラックスが描こうとしたのは、“いっさいの美しい飾りを取り除いた、裸でむき出しの愛”。彼はこうも説明する。

「僕は貧しさを恋愛状態のメタファーとして使った。アレックスは愛を一度も知らないし、愛を望んだことすらない若者なんだ。誰かを愛する人間は、裸でむきだしのままだ。住居も、電話も、ファックスも、テレビも、もはやその人にとってはなんの助けにもならない。これは、僕たち自身の貧しさ、僕たちの内なる浮浪者についての映画であり、貧困や浮浪者そのものについての映画ではないんだ」(鈴木布美子・著『レオス・カラックス~映画の二十一世紀へ向けて』/1992/筑摩書房)

 主観的でエモーショナルな立場から自分たちの内なる貧しさを見つめる視線。『ポンヌフの恋人』と『天気の子』の最大の類似点がこれである。


一周回った“ハッピーエンド”

Carax13.jpg
『ポンヌフの恋人』──『タイタニック』(1997)でパクられたラストシーン

 アレックスの必死の妨害工作も空しく、ミシェルは結局、手術で自分の眼が治ることを知り、彼のもとを去る。傷心のアレックスは放火と過失致死の罪(ポスターにつけた火が原因で作業員1人が焼死した)で逮捕され、刑務所に入る。しかし、その後もミシェルはアレックスのことが忘れられず、彼が出所した2年半後のクリスマスの晩、2人はポンヌフで落ち合うことになる。橋の上で楽しいひとときを過ごした2人だったが、しかし、現実はそう甘くない。ずっと一緒にいられると思ってウキウキだったアレックスに、ミシェルがポツリと言う。“もう帰らなきゃ”(彼女は眼を治療した眼科医と交際しており、彼女の心は彼とアレックスの間で揺れ動いている)。そこで再びアレックスの狂気が発動する。絶対に帰すものか──欄干の上でミシェルと激しく揉み合った末、彼はそのまま彼女を引きずり込むようにして真冬のセーヌ川に落ちるのである。完全に狂っている。溺れかかった2人は、しかし、老夫婦が操縦する通りすがりの平底船に救助される。ミシェルの心にも再び火がつき、2人はそのまま揃って港を目指すことになる。ミシェル、僕たちはきっと、大丈夫だ! FIN。こんな終わり方でいいんですか?!

 『天気の子』もエピローグで2年半後へ時間が飛び、一度否定を入れてからの肯定、という手順で急転直下のハッピーエンドを迎える。事件後、保護観察処分となって故郷の離島で残りの高校生活を大人しく過ごした帆高は、大学進学を機に再び上京し、2年半ぶりに陽菜と再会することになる。彼には自分の選択によって世界が狂ってしまったことが気掛かりだった。“どんだけ自分が特別だと思ってんだ。世界なんてどうせもともと狂ってる”──圭介にそう諭される帆高だったが、陽菜との再会を噛み締めながら彼は思う。“世界は最初から狂っていたわけじゃない。僕たちが変えたんだ。あの夏、あの空の上で、僕は選んだんだ。青空よりも陽菜さんを。大勢のしあわせよりも陽菜さんの命を。陽菜さん、僕たちはきっと、大丈夫だ!”。終。

 取ってつけたような感もある『ポンヌフの恋人』の楽観的なエンディングは、最終的な形になるまで様々な紆余曲折を経ている。以下、カラックスのインタビュー発言(『レオス・カラックス~映画の二十一世紀へ向けて』)から引用する。

「本当のことを言えば、映画の終わりも別のかたちにしたいと考えていた。僕はアレックスを、さらにもっと成長させたかった。僕が考えたエンディングはこうだ。アレックスとミシェルが冬のセーヌ川に落ちる。ふたりは泳いでヴェール・ギャラン(ポンヌフが架かるセーヌ川の中州=シテ島の先端にある小さな公園)にたどりつき、階段のところへ行く。キャメラは雪に覆われた島をロングで捉える。雪を被ったしだれ柳の下の階段のところに、ふたりは震えながら座っている。ここで彼らの話し声が聞こえるんだ。アレックスはミシェルと別れなければならないことを理解し、それを受け入れる。彼は別れを受け入れることを通じて、自分が愛についての何かを学び、心を開き、成長することができたことを理解するのさ」(’91年9月、パリにて)

「僕がいちばん最初に考えたエンディングでは、アレックスとミシェルは水の中でお互いを見つめ合いながら死んでいく。その次の案では、アレックスが水からあがり、ミシェルを探し、島の端の階段のところに腰掛ける。けれども、ミシェルの姿はどこにも見あたらないんだ」(同上)

「僕が最初に考えた結末が三種類あったことは、以前に話したと思う。それにエンドクレジットの直前に、短いインサート・ショットを入れることも考えた。それは三十年後のポンヌフで物乞いをしているアレックスの姿を捉えたものさ。そこでアレックスが、“果たして彼女は本当に私を愛していたのだろうか”と大声で叫ぶんだ。僕が撮りたいと考えた結末は、そういった内容だった」(’91年12月、東京にて)

 アレックスのしでかした数々の自分本位な行動を考えれば、これらの結末はいかにも理に適っているし、少なくとも実際の楽観的な結末に比べれば、遥かに観客のコンセンサスを得やすいものだろう。しかし、ミシェル役のジュリエット・ビノシュがハッピーエンドを望んだことで、カラックスは彼女へのプレゼントのつもりで結末を変えることにしたという(当時、2人は恋仲だった)。但し、カラックスが最初に考えたと話す悲観的なエンディングよりも更に前、彼がそもそもハッピーエンドを構想していたことが複数の関係者(ジュリエット・ビノシュ、ジャン=イヴ・エスコフィエ)によって明かされてもいる。それが具体的にどのようなものだったのかは不明だが、最初期のシナリオを知るジャン=イヴ・エスコフィエ(撮影監督)によれば、そのハッピーエンドはとても美しく、同時に大いなる狂気を感じさせるものだったという。いずれにせよ、カラックスはあれこれ悩んだ末、ひと回りしてハッピーエンドに辿り着いた。“ビノシュへのプレゼントのつもりで変えた”というのは一種の方便で、彼は徹底的に悩み抜いた上で、あのエンディングを選び取ったはずなのである。

 『天気の子』のエンディングも、同じように苦悩の末に生まれたものだった。ある時、新海監督は映画への提供曲として前もって渡されていたRADWIMPSの「大丈夫」という曲を聴き直し、当初は“使いどころが思いつかない”と退けたその曲の歌詞から、最終的なラストシーンの着想を得たという。小説版『天気の子』のあとがきで、彼はこう振り返っている。

「ぜんぶここに書いてあるじゃないか。そう。必要なことも、大切な感情も、全てが最初にもらった『大丈夫』に歌われていたのだ。僕はほとんど歌詞から引き出すようにしてラストシーンのコンテを書き、一年前に届いていた曲をそこにあてた。果たしてそうしてみれば、それ以外は他に在りようもない、それがこの物語のラストシーンだった」(新海誠・著『小説 天気の子』/2019/角川文庫)

 『ポンヌフの恋人』と『天気の子』、これら2つのよく似た映画の最後に共通して置かれた“大丈夫だ”という肯定。これは、人間というものは結局そうやって生きていくしかないんだ、という、一種の諦めにも似た、ひどく消極的な、しかし同時に、確信的で力強い肯定である。確信的と言っても、“大丈夫だ”ということを確信しているわけではなく、“大丈夫だ”と言うしかないことを確信している。言い方を換えれば、それは神に向かって“大丈夫ですよね? 大丈夫だと言ってください!”と懇願するような、諦めの果ての祈りのような肯定なのである。

 愛は狂気であり、凶器である。人は愛する過程で常に誰かを傷つけたり、誰かに傷つけられたりする。散々傷つき、傷つけてきた大人たちは、人間なんてそういうものだということを経験的に知っている。“どんだけ自分が特別だと思ってんだ。世界なんてどうせもともと狂ってる”という圭介の言葉は、“どんだけナイーヴなんだ。別におまえだけが狂ってるわけじゃない、みんな狂ってるんだ(だからあんまり気にするな)”という意味である。みんな狂っているなら、それは最早“狂っている”とは言えないかもしれない。しかし、それでも狂っていることには違いないのである。大勢の幸せよりも、帆高は陽菜の命を選んだ。自分のエゴによって、間違いなく世界を変えてしまった。彼はその狂気をはっきりと自覚する。そして、狂っている自分を“大丈夫だ”と根拠もなく肯定する。そのとき、帆高は確実に少年から青年へと成長しているだろう。


Carax14.jpg
『天気の子』──帆高(アレックス)と圭介(ハンス)と陽菜(ミシェル)

 以上、2つの映画の主な類似点を挙げた。『天気の子』が『ポンヌフの恋人2019』、あるいは『新宿の恋人』とでも言うべき作品であることがお分かりいただけただろうか。カラックス的な点にばかり目が行くせいで、もしかすると私は新海監督の意図や、新海映画ならではの良さを見過ごしてしまっているかもしれないが、『ポンヌフの恋人』と比較することで、『天気の子』をより深く味わうことができるように思う(その逆も然り)。

 カラックスの映画と同様、『天気の子』は観る年齢によって感じ方が大きく変わる作品だと思う。中年の私は帆高ではなく、もっぱら須賀圭介の視点から事の成り行きを見守ったが、それでも、いくつか感情が揺さぶられる瞬間があったことは事実である。線路の上を走る帆高の姿をぼんやり眺めていたとき、隣の席のおっさんから“大丈夫ですか? あなた今、泣いてますよ”と言われ、ひどく驚いたりもした(ような気がする)。センチメンタルすぎて25歳以上視聴不能だった前作『君の名は。』とは違い、少年(青年)と中年(大人)という2つの世代の人物を対置したことで、今作には単なる青春映画にとどまらない深みが生まれている。

 ひとつ難点を挙げるなら、帆高があまりにも良い子すぎる点。『ポンヌフの恋人』のアレックスと違い、彼は何の屈折もない、本当に普通の明るい真面目な少年で、とても家出するような子には見えない。まるで両親から笑顔で東京に送り出されたような感じなのである。家出の理由を裏付ける故郷での生活や、彼の家庭環境は劇中では全くと言っていいほど描かれていない。家や学校が息苦しかった、という本人の弁や、ある日、地元の離島で不思議な陽光を目にしたことが家出の理由として示されてはいるものの、さっぱり説得力はなかった(『君の名は。』的な後者の運命説は悪い意味でマンガ的だと思った)。サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』を携帯している点から推測して、多分、彼の家出の理由はあまり大したものではない。『ライ麦畑でつかまえて』は、彼くらいの年頃の子が必ずと言っていいほど読む青春小説である。帆高の人生にはそれまで普通に晴れ間もあっただろうが、このところ曇り空が続いていて、何となくどこかへ脱出したくなった……というのがせいぜいの理由なのだろう。このあまりにも平均的な少年像が、彼が最終的にエゴイズムによって犠牲にするものの大きさ(東京水没)と釣り合わない。アレックスくらい救いようがない身の上の青年ならば、どんな暴挙も(許されるかどうかは別にして)納得がいくのだが、帆高少年の場合、あまりにも普通の坊やであるがゆえ、その暴挙が軽はずみに感じられるのである。なので、“能天気なガキが東京水没させてんじゃねーよ!”という野次が飛ぶのも頷ける。観客が感情移入しやすいよう、新海監督は敢えて帆高を普通の少年にしたのだろうが、もうちょっと闇を抱えた不良少年でも良かったのではないか(せめてアムロ・レイくらいの暗さと屈折が欲しい。そういうキャラでは今は客を呼べないのかもしれないが……)

 あと、これは決して欠点ではないが、カラックスとの比較で言うと、『天気の子』はあまりにも台詞に頼り過ぎていると思った。登場人物の感情が爆発する肝心の場面で、新海監督は心情をすべて言葉で表現してしまう。“天気なんて狂ったままでいいんだ!”や“陽菜さん、僕たちはきっと、大丈夫だ!”などがその典型例である。『ポンヌフの恋人』の類似場面で、アレックスは一言も言葉を発しない。先述した“眼なんて治らないままでいいんだ!”と“ミシェル、僕たちはきっと、大丈夫だ!”は、『天気の子』との類似を明確にするために私が勝手にアレックスの心の声を書き出しただけで、実際には、これら2つの場面では、純粋に身体的な演技と映像演出のみで人物の感情が表現されている。カラックスがそういう表現をするのは、先述したように、彼がサイレント映画から多くを学んでいるためである。新海監督は小説家でもあるので、その分、言葉(台詞)に重点を置くのだろうが、単純に映画ファンである私には、“ここぞ”というところで言葉頼みになってしまう点が少々興醒めだった。書き割り(美術)は文句なしに素晴らしいが、話法そのものに小説的な印象を受ける。もしかすると彼は基本的に物書きタイプの人で、小説に絵をつけるような感覚で(あるいは、紙芝居を動かすような感覚で)映画を作っているのかもしれない。それは彼の個性であって、決して欠点ではないのだが、一度、徹底的に台詞をそぎ落とすという冒険をしてみたら面白いのではないか。

 最後に、もうひとつだけ私が気になるのは、『天気の子』が結果的にエゴイズム(利己主義)を肯定してしまっている点である。『天気の子』が扱うエゴイズムは、もっぱら愛の弊害としてのそれであり、しかも、『ポンヌフの恋人』との比較でも書いた通り、それは一周回った上での消極的な肯定であって、決してエゴイズムそのものを積極的・全面的に肯定するものではない。今、私たちが暮らす社会では、自分の利益だけを優先したり(自国優先主義)、他人の気持ちなどお構いなしに本音をぶちまけること(ヘイトスピーチ)が持てはやされ、時代の大きな風潮になっている。私は『天気の子』がそうした流れに取り込まれてしまわないかと少し危惧している。新海監督はエゴイズムを称揚するつもりで『天気の子』を作ったわけではないだろうし(もし彼がそういう時代の風潮を見据えて『天気の子』を作ったのなら、相当にしたたかだと思うが)、実生活においては、感情と理性の間で常にバランスを取ることが大切である。『ポンヌフの恋人』のアレックスの立場で言えば、ミシェルの眼が手術で治ることが分かったとき、それを彼女に伝えられるかどうか。『天気の子』の帆高の立場で言えば、人柱となった陽菜との別れを運命として受け入れられるかどうか。実際にその決断をするには大変な勇気がいるし、私自身、彼らの立場だったらできるかどうか分からない。しかし、そこで踏みとどまって、自分がどうするべきかよく考えることが大事なのである。自分のエゴによって引き起こされる言動が、常に誰かを傷つけたり、何かを犠牲にする可能性があることを、私たちは知っておかなければならない。私は人に説教する資格などないダメな大人だが、特に『天気の子』を観た今の若者に、圭介的な立場からそれだけは言っておきたいのである。


Alex_Trilogy.jpg


 おまけ。アレックス(ドニ・ラヴァン)を主人公にしたレオス・カラックスの初期3作『ボーイ・ミーツ・ガール』(1984)、『汚れた血』(1986)、『ポンヌフの恋人』(1991)──通称“アレックス三部作”──の劇中使用曲を集めたプレイリスト『Leos Carax: Music from the Alex Trilogy』。『ポンヌフの恋人』のエンディングを飾ったレ・リタ・ミツコ「Les Amants」を除き、カラックスの初期3作にはすべて既成曲が使われている。サントラ盤未発売のため、その代わりとして聴けるものを作った(『天気の子』に合わせたわけではなく、映画を観る前にたまたま作ったところだった)

 最初の3曲が『ボーイ・ミーツ・ガール』、プロコフィエフ「ピーターと狼(Peter and the Wolf)」からベンジャミン・ブリテン「シンプル・シンフォニー 第3楽章~感傷的なサラバンド(Simple Symphony, Op. 4: III. Sentimental Saraband)」までが『汚れた血』、ゾルターン・コダーイ「無伴奏チェロ・ソナタ(Sonata for Solo Cello)」からレ・リタ・ミツコ「Les Amants」までが『ポンヌフの恋人』。曲順は劇中での登場順に倣っている。音源が使われた曲だけでなく、登場人物が口笛で吹いたり(「ピーターと狼」)、歌ったりする曲(シャルル・アズナヴール「Parce Que」)もついでに収録。できる限り実際に劇中で使用された音源を揃えたが、手に入らないものについては、なるべくそれに近い演奏を選んだ(『ポンヌフの恋人』にチェリスト役で出演し、実際に演奏も担当したクリシャン・ラルソン Chrichan Larson によるコダーイ「無伴奏チェロ・ソナタ」は音盤化されていない。ラルソンの演奏は、この曲の第一人者でもあるヤーノシュ・シュタルケルの’70年録音と、ハンガリーの若手奏者、イシュトヴァン・ヴァルダイの’15年録音の中間くらいの印象を受ける。激情を叩きつけるようなシュタルケル版は録音の良さも含めて必聴だが、演奏があまりにも性急であるため、ここではバランスの取れた後者を選んだ。Spotifyにはないが、個人的には長年CDで愛聴したユーリ・トゥロフスキーの’83年録音に最も愛着がある)

 最後のUNKLE「Rabbit In Your Headlights」(1998)はボーナス・トラック。ジョナサン・グレイザーが監督した同曲のMVにはドニ・ラヴァンが出演し、『ポンヌフの恋人』のアレックスのその後の姿を思わせるキャラクターを演じている(カラックスがエンドクレジットの直前に入れることを考えたという“30年後のアレックス”に近いかもしれない)。カラックス作品ではないが、強い繋がりがあるため収録した。

 カラックス・ファンの元若者はどうぞ。





能天気の子?──再考『天気の子』(2019.09.18)
(私は『天気の子』をあまりにも『ポンヌフの恋人』に引き寄せすぎたようだ。反省も込めて、数日後に書いた補足記事。ライムスター宇多丸氏など、他の観客の意見もあわせて紹介)

関連記事:
Keep Rollin'!~Reel 23「走る人 準決勝」(2018.12.17)
Keep Rollin'!~Reel 24「走る人 決勝」(2018.12.24)

| Cinema Paradiso | 02:00 | TOP↑

PREV | PAGE-SELECT | NEXT