2020 051234567891011121314151617181920212223242526272829302020 07

PREV | PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

90歳の一匹ラバ──『運び屋』『ラッキー』



 映画『運び屋(’19年3月8日、日本公開)を新宿バルト9にて鑑賞。『グラン・トリノ』以来10年ぶりとなるクリント・イーストウッドの監督・主演作で、しかも御年88歳の彼が90歳の麻薬の運び屋を演じたと来れば、いやが上にも期待が増す。普段は公開終了間際にならないとなかなか劇場に行かない私も、この映画に関しては封切り翌週に速攻で足を運んだ。


90-year-old-mules2.jpg
『ラッキー』(’18年3月17日、日本公開)は新宿武蔵野館で鑑賞

 エレガントに枯れた『運び屋』のイーストウッドに見入りながら、ちょうど1年前に日本公開された映画『ラッキー』(2017)を何度も思い返した。

 『ラッキー』は、『パリ、テキサス』(1984)で有名なハリー・ディーン・スタントンの最後の主演作。スタントン演じる独り身の90歳の老人が、ルーティン化した平凡な日常生活の中で徐々に自分の死と向き合っていく様子を淡々とコメディタッチで描いた一種の“終活”映画である。筋があってないような物語展開や、自然とユーモアが滲む慈愛に満ちた人間描写にはジム・ジャームッシュ作品とよく似た詩情があり、同監督の『パターソン』(2016)の老人版、あるいは、『パリ、テキサス』の主人公トラヴィスの33年後の姿を描いたスピンオフ作品のように見ることもできる。自分に当て書きされた90歳の主人公ラッキーを演じた後、スタントンは’17年9月に91歳でこの世を去った。

 『ラッキー』と『運び屋』にはいくつか明確な接点がある。主人公がいずれも戦争(太平洋戦争もしくは朝鮮戦争)を経験した90歳の孤独な老人であること。物語に主演俳優の実人生が投影されていること。メキシコ系の人間が重要な役回りで登場したり(そして、いずれの主人公もスペイン語が少し話せる)、劇中で主人公が歌を歌う場面がある点も共通する。『運び屋』の原題“The Mule”は、麻薬を密輸するために運び屋として雇われる素人旅行者を指す俗語だが、“mule(ラバ)”には“頑固者”という意味もある。これは、『ラッキー』でスタントンが演じた偏屈な無神論者の老人にもそのまま当てはまる語だ。

90-year-old-mules4.jpg
『グラン・トリノ』──イーストウッド(右)とジョン・キャロル・リンチ(中央)

 『運び屋』でイーストウッドが演じた老人アールは、ラッキーと違って外面のいい社交的な人物だが(その代わり思い切り家庭を犠牲にしている)、イーストウッドは10年前の『グラン・トリノ』で、ラッキーと似たような一匹狼、ならぬ“一匹ラバ”=独りぼっちの頑固じじいを演じていた。そして『ラッキー』は、その『グラン・トリノ』に口の悪い床屋役で出演していたジョン・キャロル・リンチの初監督作だったりする。『グラン・トリノ』→『ラッキー』→『運び屋』という、このフィードバックのような繋がりが面白い。実際、『運び屋』の飄々としたコメディ感覚や、主人公が同じ行動(麻薬の運搬)をする場面を少しずつ変化をつけながら規則的に(まるで定型詩のように)繰り返し見せる演出は、『ラッキー』、または『パターソン』等のジャームッシュ作品を参照しているようにも思える。

90-year-old-mules5.jpg
『ラッキー』──独りぼっちの主人公は、たまたま招かれたメキシコ人の宴会で歌を披露することになる

 『ラッキー』のスタントンと『運び屋』のイーストウッドは、ただ画面に映っているだけで素晴らしい。皺くちゃの顔、乱れた白髪頭、弱々しくも鋭さのある眼光、長い人生の年輪を感じさせる特徴的な歩き方。『運び屋』のイーストウッドは90歳の老人を演じるため、わざと背中を丸めて歩いて耄碌ぶりを強調したそうだが、『ラッキー』のスタントンと同様、彼の顔や佇まいには、それだけで詩として成立するような深い趣がある。

 映画の世界では昔から“子供と動物には敵わない”と言われる。子供と動物の所作や表情には、単なる演技によっては得られないリアルで純粋な輝きがあるからだ。どんな名優の名演技も、子供や動物が登場すればたちまち食われてしまう。子供や動物のように手が追えず、それでいて愛さずにいられないチャーミングさを持つスタントン爺とイーストウッド爺を見ると、“子供と動物と老人には敵わない”とつくづく思う。

90-year-old-mules3.jpg
『運び屋』のイーストウッド。額から血を流して車を駆り、警察のヘリコプターに追われるクライマックスの画に震えた。まさかこんな『ガントレット』みたいな場面を’19年に映画館で見られるとは……。その後のブラッドリー・クーパーとの穏やかな会話場面には涙が出た

 『グラン・トリノ』は現代劇の皮を被った西部劇のような映画で、イーストウッドが過去にセルジオ・レオーネ作品や『ダーティハリー』シリーズなどで見せてきた暴力主義に対する彼なりの壮絶な落とし前だった。アメリカの銃社会を否定も肯定もせず、最終的に非暴力という戦闘手段を取る彼の姿には、単純に銃規制を訴えるリベラル派の物言いとは比べものにならないリアリズムと説得力があった。

 社会問題や映画史も視野に入れた重厚な『グラン・トリノ』に対して、『運び屋』はよりパーソナルで、これまでのイーストウッド作品にはなかった軽みがあるのが大きな特徴。『運び屋』は“仕事と家庭はどちらが大事か”というテーマを扱い、これまで仕事に専心して家庭をなおざりにしてきたイーストウッド自身の贖罪映画になっている。が、家族に対するそんな私的な伝言のような映画に深い感動があるのは、『グラン・トリノ』と同様、そこに“学ぶのに遅すぎることはない(Never too late to learn)”という普遍的なメッセージが込められているからだろう。更に言えば、この映画は88歳のイーストウッドの終活映画でもない。劇中でイーストウッド演じる老人アールは、自分の妻の死にこそ直面するが、彼自身が自らの死を意識し、それに向き合うことはない。彼は自分が明日死ぬとは思っていないし、逆に、いつ死んでも構わないと思って生きている(“100歳まで生きたがるのは99歳の奴だけだ”)。死が近い90歳だから贖罪するのではない。それは50歳でも30歳でも構わないのだ。俺はこんな歳になっちまったが、気づいたときに悔い改めればいいのさ……イーストウッドはそう言っている。年齢は関係ない。老人の映画であるようでいて、最終的にそうなっていないところが素晴らしい。

 映画全体に漲るイーストウッドの活力に圧倒される。90歳になっても新しい仕事に挑戦し、メールやスマホの使い方も覚える。『シェイプ・オブ・ウォーター』(2017)のようにただ正義ばかりを振りかざす昨今のポリティカル・コレクトネス映画とは一線を画する、人種・性的マイノリティに対する地に足のついたさりげない歩み寄りの姿勢もさすがだ。獄中でも尚、趣味の園芸に生きがいを見出す主人公の姿は、88歳になっても生き生きと映画を撮り続けるイーストウッドの姿そのものだろう(エンドロールで流れる「Don’t Let The Old Man In(老いを迎い入れるな)」という歌はあまりにも説明的だと思ったが……)

 見習いたい点がたくさんある『運び屋』だが、88歳になっても若い美女2人と嬉々として3Pセックス場面を(二度も!)繰り広げてしまうイーストウッド爺の生き様は、常人にはちょっと真似できないものかもしれない。



関連記事:
我が道を往く──ジム・ジャームッシュ『パターソン』(2017.10.09)
JAËRAYMIE──銃を薔薇に変えるパリの路上アーティスト(2018.02.03)
映画の肖像(2018.06.05)
Keep Rollin'!~Reel 6「覗く人」(2018.08.17)
ピエールに告ぐ(2019.03.15)

| Cinema Paradiso | 05:15 | TOP↑

PREV | PAGE-SELECT | NEXT