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映画の肖像



 東京都千代田区、秋葉原と御徒町のちょうど中間あたりに、かつて練成中学校という区立学校があった。統合のため'05年に廃校になったが、校舎の改修を経て、'10年から文化芸術センターとして運営されている。最近よくある廃校リノベーションというやつだ。

 校舎の手前に広がる公園の一角に喫煙所があったことがきっかけで、先日、私はその3331 Arts Chiyodaという文化芸術センターに何となく足を踏み入れた。そこでは一年を通して様々な企画展が催されていて、誰でも無料で観覧できるらしかったからである。

 館内の構造はまさに学校そのもので、廊下には水道の蛇口がずらりと並ぶ手洗い場がそのまま残っていたりする。まるで放課後の学校のように人気のない、シーンと静まり返った廊下を懐かしい気分で歩き、ギャラリーになっている教室のひとつに入ったところ……上の画像に写っている黒い物体に出くわした。黒板か、と思った。


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Light black painting1 (2018)

 黒板か、と思ったが、普通、黒板は緑色である。壁に密着した横縦比16:9の大きな黒板状の物体。薄型テレビにも似ているが、よく見ると板面の上下部分が帯状に更に深く黒ずんでいる。

 2秒ほどして気づいた。これと全く同じイメージを、私はこれまで数え切れないほど見てきた。深い感動や喜びと共に繰り返し眺めてきた。これは“映画”だ。より正確には、シネマスコープ(2.35:1)の映画である。

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黒くぬれ!──至近距離で見た「Light black painting1 」の表面

 この黒板状の物体、映写スクリーンでも液晶画面でもなく、実は絵画作品である。横縦比16:9のキャンバスが、異なる2つのトーンの黒色でベタ塗りされている。近づいてよく見ると、表面に僅かな刷毛跡や小さな傷があるのが確認できる。人物画、風景画、静物画などと同じように、これは“映画”を描いた絵なのである。なんだバカらしい、ただ黒く塗っただけじゃないか、と思う人もいるだろうが、映画好きの私はこの絵を見て、ちょっとした感動を覚えた。映画の特徴がとてもよく捉えられていると思ったのである。

 スクリーンという一定の空間内に現れる光のイメージが1秒24コマの速さで次々と変化していく映画は、空間芸術であると同時に時間芸術でもある。純粋な空間芸術である絵画という表現手法で“映画”を描くことは原理的に不可能に思われる。仮にある映画の1コマを描いたとしても、それは単なる静止画であって、決して動く画(motion picture)ではないし、元ネタを知らない人が見たら、それが映画を描いた絵とは認識できないだろう。絵画で“映画”を表現するには──そんなことを考える人間は滅多にいないと思うが──映画が持つ時間芸術としての要素を何らかの形で擬似的に取り込む必要があるはずだ。

 この「Light black painting1」という絵画作品はそれに成功していると思う。画面中央に浮かぶシネマスコープ・サイズの仄かに明るい黒面は、映画の黒みの1コマを取りだした静止画であると同時に、複数コマの黒みを集積したイメージとして捉えることもできる。この1コマは、1000コマにも10000コマにも100000コマにもなり得る。眺めていると、ずっと黒みの画面が続いているように感じられるのである。ここには映画が持つ“時間”の感覚が確かにある。

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ジム・キャンベル「Hitchcock's Psycho」(2000)、「Fleming's The Wizard of OZ」(2001)

 「Light black painting1」と似たような方法で映画を捉えた空間芸術作品が過去にある。ジム・キャンベル Jim Campbell(1956〜)というアメリカの現代アート作家が'00年〜'01年に発表した“Illuminated Average(照射される平均値)”という連作がそれだ。彼はそこで、ヒッチコック『サイコ』(1960)のすべてのコマをスキャンし、それらを均等に合成して1つの画像にしてみせた。上映時間110分、約17万コマから成る『サイコ』の全視覚情報を集積したその静止画は、全く意味不明な抽象絵画のような──もやもやと立ちこめる深い霧か、煙が充満する火災現場のようにも見える──実に奇怪な様相を呈している。キャンベルは同シリーズで、オーソン・ウェルズ『市民ケーン』(1941)や、ヴィクター・フレミング『オズの魔法使』(1939)も同様の方法で圧縮・静止画化した(『市民ケーン』は約2分の朝食場面、『オズの魔法使』は112分の全編)。『オズの魔法使』の圧縮合成画像は、画面上部に空の青色、端や下部に緑色や黄色がぼんやりと浮かぶ幻想的な色彩イメージに何となくドロシーの旅路を感じることができる。

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「Wuthering Heights Random House 1945」(2001)──1ページでわかる(?)『嵐が丘』

 キャンベルの同シリーズでは、映画作品だけでなく、エミリー・ブロンテの小説『嵐が丘』(1847)の計212ページ('45年、Random House版。挿し絵ページを除く)をスキャンして1ページに圧縮合成するという試みも行われている。“1ページでわかる『嵐が丘』(Wuthering Heights in 1 page)”とでも呼ぶに相応しい奇作だ。今、世の中には“10分でわかる仮想通貨”、“5分でわかる『スター・ウォーズ』”といったまとめ動画、まとめ本、まとめテキストが溢れている。NAVERのようなまとめサイトも人気だ。情報過多の現代では、迅速で効率のよい情報処理が求められる。人はとにかく手っ取り早く分かりたい。ジム・キャンベルのこの連作は、そうした時代を反映したユーモラスな“まとめアート”と言えるかもしれない。

 「Light black painting1」とキャンベルの「1秒でわかる『サイコ』」(と仮に呼んでおく)は、いずれも映画の複数コマを1つの静止画で表現している。但し、両者は似て非なる作品だ。「1秒でわかる『サイコ』」が特定の映画作品に含まれる視覚情報を統計学的に捉えようとして(そして結果的に、映画とはとても思えない代物になって)いるのに対して、「Light black painting1」からは、作品としての映画ではなく、装置としての映画を捉えようとする意識が強く感じられる。

 「Light black painting1」は、横縦比16:9の真っ黒な画面内に2.35:1の薄明るい黒画面を描くことで、明確に映画のスクリーンを表現している。そこに描かれた黒みのカットは、どの映画にも登場する非常に普遍的なものだ。場面と場面の転換時にはこの黒みがよく挿入されるし、どんな映画でも観客は最初と最後に必ずこの真っ黒な画面を目にしている。それは『アラビアのロレンス』が終わった直後、劇場内が明るくなるまでの束の間の瞬間かもしれないし、あるいは『2001年宇宙の旅』が始まる直前の瞬間かもしれない。見る人によって、この黒みは様々な映画の記憶と結びつく。これほどまでに普遍的な映画のイメージはないだろう。

 この絵画作品は、1つの物体としてのスクリーンを表すと同時に、そこに現れうる無限のイメージを仄めかしている。映画ファンであれば、その黒い画面を通して、どこへでも飛んでいけるような錯覚に陥るだろう。この絵は、いわば永遠に閉ざされた“どこでもドア”のようなものだ。閉ざされてはいるが、単なるドアではなく、確かに“どこでもドア”だと感じられる。そう感じられるのは、先述したように、そこに映画特有の“時間”の感覚がしっかり宿っているからだろう。「Light black painting1」を眺めながら、私はしみじみと、映画ってこうだよなあ、と思った。


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End credits drawing1 (2018)

 ギャラリーには、同じ作者による映画絡みの作品が全部で4点展示されていた。「End credits drawing1」と題された作品は、ヴィム・ヴェンダース監督『パリ、テキサス』(1984)のエンドロールを始めから終わりまで、反物のような細長い紙の上にすべて手描き(!)で再現したもの。掛軸のように壁に掛けられているが、あまりにも縦長すぎて(3メートルくらいある)、上の画像の通り、作品の3分の1くらいは壁からはみ出して床の上にべろんと横たわっていた。

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執念の『パリ、テキサス』エンドロール模写(次は『ベルリン・天使の詩』でお願いします)

 『パリ、テキサス』のエンドロールは、黒地に白で記されたキャストやスタッフの名前が上方向にゆっくりスクロールしていく、ごくありふれたものである。「End credits drawing1」は、黒地部分を鉛筆でひたすら塗りつぶすという方法で、そのすべてを細かく模写している。完成までに一体どのくらいの時間を要したのか。作者はよほどの暇人か、よほどの映画バカのどちらかでしかあり得ない。

 先述の「Light black painting1」と同様、この作品には、空間×時間芸術である映画を空間のみで表現しようとする意図が感じられる(“映画”ということが受け手に分かることが重要で、『パリ、テキサス』という点は恐らくここであまり重要ではないだろう)。『パリ、テキサス』のエンドロールは、時間にして約1分45秒ある。その1分45秒の視覚情報をひとつの平面上に落とし込んだ結果がこれなのだ。縦幅の長さは、そのまま時間の推移を示すだろう。結果、この作品の様態は巻物に近づいている。


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End credits painting2 (Screen hero) (2018)

 出展されていた4点の中で、ある意味、最も分かりやすくキャッチーだったのが、この「End credits painting2 (Screen hero)」という作品。「Light black painting1」と同じく黒のベタ塗りで描かれた映画スクリーンの中に、白い塗料でキャスト名が列記されたエンドロールの絵だ。よく見ると、出演者が全員ロバート・デ・ニーロである。

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色んなデ・ニーロ

 『ゴッドファーザー Part II』(1974)の“Vito Corleone”で始まり、『タクシードライバー』(1976)の“Travis Bickle”、『ラスト・タイクーン』(1976)の“Monroe Stahr”、『ディア・ハンター』(1978)の“Michael”……そして、『ボーダー』(2008)の“Turk”に至るまで、デ・ニーロの代表作の出演クレジットがずらりと連なっている。様々な書体は(実際に確認したわけではないが)各映画のエンドロールからそのままトレースしたものだろう。書体の違いがそのまま役柄の違いを示しているようでもあり、面白い(『未来世紀ブラジル』がない!)

 カメレオン俳優のデ・ニーロをネタにしているところが良い。映画ファンなら、これを見て誰でもニヤリとするはずだ。一応、絵画という形式をとっているが、このコラージュは、デ・ニーロのクレジット部分の画像データを合成したデジタル画像作品であっても構わないと思う。デ・ニーロの俳優人生を振り返るドキュメンタリー映画の最後にこうしたクレジットを流すのも一興だろう。


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End credits painting3 (4.23 CAST) (2018)

 4点の中で最も謎めいていたのが、この小品。これもまた映画のエンドロールを描いた作品だが、記されているキャストが不可解だ。“Friend1”〜“Friend5”、“Bank staff”、“Supermarket staff”、“Shop staff”、“Bus driver”という役名の横に、出演者の日本人名が“MURATA”、“NISHI”、“TAKAHASHI”という具合にいずれも名字のみでクレジットされている。会場内にあった案内リーフレットには作品名が記されているだけで、作品についての解説は何もない。これは実在する映画のエンドロールだろうか?

 推測だが、主人公のクレジットがない点、役名が人名ではなくすべて役割名である点、出演者名が名字のみである点(恐らくプライバシーが考慮されている)、作品の副題が“4.23 CAST”である点からして、このクレジットは、4月23日にこの作者の実人生に登場した主な人物を示したものではないだろうか。

 考えようによっては、人の一生というものは神が監督する上映時間80年間の映画のようなものである。これはその中の一編である“(2018年)4月23日”のエンドロールなのではないか。誰の作品だったか忘れたが、黒いキャンバスに白い文字で大きく日付だけを記した日めくりカレンダーのような絵画が過去にあった(割と有名な作品だった気がする)。これはちょっとそれの“映画版”のような感じでもある。

 この作品が「Light black painting1」や「End credits painting2 (Screen hero)」に較べてサイズが小さめなのも、そのような極めて私的な“映画”のクレジットだからかもしれない。横幅1メートルくらいのサイズだったが、この作品はいっそのことスマートフォン大にしてしまっても良かったと思う。スマートフォンは個人に帰属し、その持ち主だけが見るものである。自分の人生のある一日のエンドロールを映し出すスクリーンとして、スマホの画面ほど相応しいものはないだろう。


USE YOUR IMAGINATION AND YOUR SKILLS

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エンドロールの絵が展示されていたギャラリー、アキバタマビ21(201号室)

 以上の4作品は、3331 Arts Chiyodaの201〜202号室にあるギャラリー、アキバタマビ21で催されていた展覧会《What the f*** is happening in this Riv. 行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。》で展示されていた。

 アキバタマビ21は“多摩美術大学が運営する、若い芸術家たちのための作品発表の場”だそうで、今回の展覧会は同大学出身の若手アーティストの作品を集めたものだった。出展者は、鈴木飛馬、平敷萌子、水上愛美、安原千夏の4人。この中で、映画スクリーンをモチーフにした4作品を制作したのは、安原千夏という人だった。

 参考までに彼女について私が知っている二、三の事柄を書くと、安原千夏は1993年 千葉県出身、2017年 多摩美術大学絵画学科油画専攻卒業、2018年 東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻壁画第一研究室在籍。“映像の不可視性についての興味から、映像の中の世界とこちらの世界をつなぐ「スクリーン」に着目した作品を制作する。投影されることが価値となるスクリーンの持つ既存の機能を内包し、ここではない何処かにつながる可能性に期待し、スクリーンのオブジェクトとしての側面を探求・提示する。自身の作品がいわば「門」のような存在になることを理想とする”人物であるらしい(以上、展覧会フライヤーより)。

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アキバタマビ21(202号室)。むむ……

 念のため断っておくと、私自身は現代アートに関して全くの門外漢である。現代アートの作品は説明されないと分からないものが多いし、説明されても分からないことが多い。ギャラリーに展示されていた他の3作家の作品(上の2つの会場画像にその一部が写っている)は、いずれも“いかにも現代アート”という印象を与える不可解なものばかりで、鑑賞能力のない私には特にこれといった価値を持つものではなかったが、映画をモチーフにした安原千夏の作品は私にとって共感できる部分が非常に多かった。私は純粋に映画ファンの立場から彼女の作品を面白いと思った。

 会場にあったポートフォリオを見ると、彼女は過去にプロジェクターと、様々な素材(ビニール、ビーズ、布、トイレットペーパーなど)のスクリーンを組み合わせたインスタレーション作品を数多く制作している。今回の出展作では、それまで彼女が用いてこなかった絵画という手法が選ばれていた。“スクリーン”や“映画”を表現するには不利とも言える絵画という手法を敢えて用いたことで、逆にその本質に近づけたのではないか。絵画で“動く画(motion picture)”を表現するには、想像力に頼るしかない。そして、想像力こそは、映画を駆動させる最も重要な要素だと思うからである。

 出展されていた計4点の安原作品の中で私がとりわけ面白いと感じたのは、最初に紹介した「Light black painting1」という真っ黒なスクリーンを描いた絵である。それを見て私は(デレク・ジャーマン『BLUE』と同時に)ジム・ジャームッシュ監督『ダウン・バイ・ロー』(1986)の一場面を思い出した。

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『ダウン・バイ・ロー』──監房の壁に窓を描くベニーニ(右)とそれを見るルーリー(左)

 刑務所で同じ牢に入れられたジョン・ルーリー、トム・ウェイツ、ロベルト・ベニーニの3人。他の2人のためにベニーニが監房の壁に木炭で窓の絵を描く場面がある。監房の中は狭く殺伐としていて、あまりにも居心地が悪いからだ。片言の英語しか喋れないイタリア人のベニーニが、アメリカ人のルーリーに訊ねる──「英語で何と言う? “窓を見る”、それとも“窓から見る”?」。壁に描かれた窓をしげしげと見て、ルーリーが「この場合は“窓を見る”だろうな」とつまらなそうに答える。ジャームッシュ映画によくある、異なる言語を話す者同士の微妙にずれた意思疎通を描いたユーモラスな場面だ。

 ジョン・ルーリー演じるジャックというポン引きの男には、ベニーニの描いた窓が、文字通り“壁に描いた窓”にしか見えない。しかし、実際のところ、壁に木炭で単純な窓の形を描いただけで、そこには不思議と監房の閉塞感を打ち破るような開放感が生まれている。“窓”の向こうに何らかの景色が広がっているように感じられ、開ければそこからすぐにでも外へ出られるような気がするのである。

 その後、3人は刑務所から脱出する。彼らはベニーニが発見した突破口を通して脱獄に成功する。その具体的な過程は描かれないが、ジャームッシュは3人がどこから脱獄したか劇中できちんと示している。ベニーニが監房の壁に描いてみせた“窓”こそ、その出口なのである。

 “通りぬけフープ”にも似たその“窓”のことを、ジム・ジャームッシュは後に『リミッツ・オブ・コントロール』(2009)で、ずばり“想像力”と換言している。その映画のクライマックスで、イザック・ド・バンコレ演じる暗殺者は、標的である“自分こそ偉大だと思っている男”(アメリカ人)のアジトに“想像力”を使っていともあっさり潜入する。『ダウン・バイ・ロー』の脱獄過程と同じく、彼がどのようにアジトに潜入したかは劇中で一切示されない。映画の最大の見せ場にもなり得る脱出/潜入場面の大胆な省略は、ある種の観客──例えば、ミュージカル映画で登場人物が突然歌ったり踊り出したりする展開を受け入れられない観客──を確実に落胆させるだろう。ジャームッシュは“想像力”という手品を使って、映画表現の無限の可能性を示唆すると同時に、映画と観客の間にある第四の壁に風穴を開けている。それは、“自分こそ偉大だと思っている男”がコントロールする、受け手にひとつの見方や解釈しか許さない(簡単に言えば、詩心のない)ハリウッド的な映画作りに対するジャームッシュなりの抵抗でもあるだろう。

 「Light black painting1」は、ロベルト・ベニーニが監房の壁に描いた窓と一緒だ。それは“支配の限界(リミッツ・オブ・コントロール)”を突破する脱出口である。その不思議な出入り口を“絵画”と呼ぶか“映画”と呼ぶか、それはもちろん見る者に委ねられている。

  As I descended into impassable rivers
  I no longer felt guided by the ferryman
  
  無情な大河を下りながら
  もはや船曳きの導きを感じなくなった

 
 ──アルチュール・ランボー『酔いどれ船』(『リミッツ・オブ・コントロール』)


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What the f*** is happening in this Riv.
行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。


鈴木飛馬/平敷萌子/水上愛美/安原千夏

開催期間:2018年4月28日(土)〜6月3日(日)
場所:アキバタマビ213331 Arts Chiyoda 2F 201・202)



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