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山口百恵 Momoe Yamaguchi (part 2)

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横須賀から来た女
山口百恵+阿木燿子+宇崎竜童

01. I CAME FROM 横須賀
02. 横須賀ストーリー
03. イミテイション・ゴールド
04. 絶体絶命
05. 鏡の中のある日
06. プレイバック Part 1
07. 視線上のアリア
08. たそがれ祭り
09. プレイバック Part 2
10. オレンジ・ブロッサム・ブルース
11. 愛の嵐
12. タイトスカート
13. ロックンロール・ウィドウ
14. 神様のおぼし召し
15. 横須賀サンセット・サンライズ


 山口百恵+阿木燿子+宇崎竜童の横須賀ファミリーが残した名作群を聴く“最強の山口百恵(The Untouchable Momoe Yamaguchi)”コンピレーション。第一集『横須賀から来た女』は、「プレイバック Part 2」に代表される、いわゆるツッパリ歌謡系の百恵作品を中心に編纂されている。

 “馬鹿にしないでよ そっちのせいよ”──ドスの利いた声で眼光鋭く決め台詞を吐く姿は、歌手・山口百恵の象徴的なイメージとして、今でも多くの人々の記憶に焼き付いているだろう。その一発の啖呵は、彼女の大人びた口ぶりや佇まい、“泣かない女”とも言われた個としての揺るぎない様、あるいは、ひとりの男のためにすべてを敵に回すことも厭わなかった結婚・引退劇などと併せ、単なるテレビの消耗品でしかなかった従来の女性アイドルの常識を粉砕するものでもあった。山口百恵は“ツッパリ”という鎧を化粧の如く身に纏い、歌の中においても、芸能界という職場においても、女の新たな生き様を示したのである。

 『横須賀から来た女』は、山口百恵のルーツ=横須賀をキーワードに、彼女のパンチが最も切れるツッパリ歌謡を振り返りながら、ひとりの少女の成長の軌跡を、青春の躍動感、スピード感そのままに一気に辿る60分の音楽ドラマである。バラードなし。泣いてる暇なし。山口百恵は一度も立ち止まらず、最初から最後まで走り続ける。

 様々な心象風景を短編小説のように描き出す阿木燿子の詞作はもちろんとして、ここで重要なのは宇崎竜童の楽曲、特にそのビート感である。ロックンロール、R&B、ソウル、ファンク、時にレゲエ、ラテン、サンバにまで及ぶ西洋音楽を、力業で日本語のリズムに引き寄せる彼の横須賀的な作曲センスなしに、山口百恵は決して青春を駆け抜けることはできなかった。
 感覚的に言うと、宇崎は(例えば桑田佳祐のように)日本語を英語的に崩して舶来ビートに乗っけるのではなく、逆に舶来ビートを解体して日本語に下からくっつけるような曲の作り方をする(行程としては、曲が先ではなく、阿木の詞がまずあり、それに宇崎が曲をつけている)。ゆえに、自然と日本語の美しさが生き、決して言葉の意味がスポイルされることがない。日本語の重さ、たどたどしさを引きずりながら、同時に西洋音楽のグルーヴを獲得するガッツ溢れる和洋折衷。宇崎の男前な作曲センスがあったからこそ、百恵は阿木の言葉を正確に咀嚼し、歌うたいとしてすくすく成長することができたのだとも言える。

 何はともあれ、喧嘩上等。横須賀ファミリーの一人娘、山口百恵のパンチとキックが炸裂する『横須賀から来た女』、ここでその全15曲を一気に解説していく。最高にカッコいい山口百恵を聴きたければ、これしかない。




I CAME FROM 横須賀
作詞・阿木燿子/作曲・宇崎竜童/編曲・萩田光雄
from 『百恵白書』(1977.5.21)
 「山口百恵」という名のドラマが走り出す。京浜特急のドアの窓辺に立ち、流れる景色を眺めながら“あなた”に会いに行く少女。横須賀、汐入、追浜、金沢八景、金沢文庫……横須賀から品川へと向かう京浜急行線の駅名を連ねていく歌詞が秀逸で、主人公の躍動する青春と特急電車のスピード感が完璧に同期している。この少女の姿は同時に、13歳の秋、有楽町そごうのよみうりホールで行われた〈スター誕生!〉の予選大会に、横須賀からたったひとりで向かった百恵本人の姿とも重なる(つまり、“あなた”は私たちのことでもある)。ディスコ・ファンクのビートと、その上を大股で闊歩していくような正調日本語ヴォーカル(半分ラップのようでもある)のコンビネーションが抜群。いきなり歌謡曲調になるサビのダサかっこ良さ加減も素晴らしい。リフは「Stayin' Alive」と思いきや、確認してびっくり、こちらの方がリリースは数ヶ月早い。

横須賀ストーリー
作詞・阿木燿子/作曲・宇崎竜童/編曲・萩田光雄
from 「横須賀ストーリー」(1976.6.21)/『横須賀ストーリー』(1976.8.1)
 以後の山口百恵の方向性を決定づけた永遠の名作。“急な坂道 駆けのぼったら 今も海が見えるでしょうか ここは横須賀”。坂の多い横須賀の街並み、屋根の向こうに広がる海の輝きと一緒になった初恋の記憶。駆け抜ける青春の感動的な瑞々しさ。この曲の圧倒的なヴィジュアル喚起力と、そこに描かれる心象風景は、横須賀を一度も訪れたことのない私のような者にさえその街を思慕させる。篠山紀信がモータードライヴの連続写真で制作したPV風の映像作品も必見(NHK『山口百恵 激写/篠山紀信』1979)。宇崎竜童の持ち味が100%発揮されたいなたい青春演歌ロックで、低音ストリングスで奏でられる一発KOの半音反復リフは、ミーナ「L'eclisse Twist(太陽はひとりぼっち)」、あるいは「Summertime Blues」in 横須賀。この約1年後、別の島国でセックス・ピストルズと名乗る若者たちが同じリフを演奏しながら "No future!" と叫ぶことになるのだが、それはまた別のお話、倫敦ストーリーである。

イミテイション・ゴールド[single version]
作詞・阿木燿子/作曲・宇崎竜童/編曲・萩田光雄
from 「イミテイション・ゴールド」(1977.7.1)
 “シャワーのあとの 髪のしずくを……”と気怠くブルージーに歌われる「Heartbreak Hotel」な導入部でツカミはOK。今年の男に別れた去年の男の影をつい重ねてしまう女の憂鬱(舞台は定かでないが、恐らく横須賀のどこかのアパート)。「横須賀ストーリー」後、しばらくは乙女路線で百恵を泳がせていた阿木+宇崎だが、この初のツッパリ系ソングで再びギアが入った。サビの“ア・ア・ア”が18歳にしてはあまりにもエロい。畳みかけるような歌詞、まるでスパイもののようなケレン味たっぷりのアレンジもキマっている。“百恵のなんちゃってボンド・ガール”的な趣も。イミテイション・ゴールドフィンガー?
 この歌で不思議と印象的なのは、今年の彼氏が冷蔵庫をバタンと閉じ、パックのままの牛乳を抱え、主人公のもとに身軽な動作で運ぶ場面である。どうしてこんな光景が描かれなければいけないのか。2人の半同棲的な関係や、彼氏の坊やぶりを示すためだろうか。しかし、それなら他にいくらでも効果的な描写があり得たのではないか。その脈絡の奇妙な不自然さ、そして、阿木燿子の無駄に細かい描き込み。この場面には絶対に何か意図があるはずだ。阿木はなぜわざわざ男に牛乳を運ばせたのか? そもそも、それはなぜオレンジ・ジュースでもコーラでもなく、牛乳なのか? 常識的に発想すれば、このカップルに相応しい飲み物はコーヒーだろう(恐らくインスタント。いそいそとコーヒーをいれる彼)。何故に牛乳? ヒッチコック『断崖』の一場面の如く、怪しい光を放つ白い液体。「横須賀ストーリー」の主人公がカフェでミルクティーを飲んでいたことを踏まえると、それは紅茶に入れるためのものかもしれない。しかし、それではこの曲の百恵の艶めかしさは説明がつかない。そして、何より歪なのが、“命そのまま 飲み干したけど”という表現。命そのまま?? 牛乳を?! 最初からよく考えてみよう──“シャワーのあと”、男がもたらす“牛乳”、それを“命そのまま 飲み干したけど”と来れば、“牛乳”は別の乳白色の液体を示すメタファーでしかありえないのではないか。そして、“贋の金(キン)”というタイトル。つまりこれは、今年の男の珍々を去年の男のそれと比べている女の歌なのだ(そう、「股」比べている。阿木燿子よ、あんたは最高だ)。恐らく阿木は、単に男に牛乳を運ばせたいがために、冷蔵庫をバタンと閉じさせたり、身軽な動作をさせたり、余計なことをやらせた。阿木のこの感動的なエロさはどうだ。これに較べれば、“あなたに女の子の一番大切なものをあげるわ”などという歌が、いかに幼稚で手ぬるいものか分かるだろう。

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'77年5月末、ロンドンでアルバム『GOLDEN FLIGHT』録音

 シングル「イミテイション・ゴールド」録音直後、百恵はパンクの嵐が吹き荒れるロンドンへ飛び、現地ミュージシャンを使った企画アルバム『GOLDEN FLIGHT』('77年8月21日発売)を吹き込んでいる。GS出身のギタリスト加藤ヒロシ、一時期キング・クリムゾン在籍のゴードン・ハスケル(ベース/ヴォーカル。ロバート・フリップの同級生)らを迎えて無骨なパブ・ロック路線に挑戦したが、ベクトルが拡散してあまり良い結果は残せていない(ミックスもズレに拍車をかけている。百恵だけ東京にいるみたいだ)。
 「イミテイション~」もそこで再録音されたが、オリジナルのシングル版より多くの点で劣る。アレンジやバンドとの相性、気風の違いももちろんあるが、最大の問題は、単純に百恵のヴォーカリストとしての気合いと力不足にあるように思う。例えば、ロンドン版「イミテイション~」は、“~が違う”連発部分で彼女にバンドを引っ張る力、背後の音と拮抗する意識がないところこそが決定的に“違う”(ドラムがああ叩き込んで来たら、ヴォーカルは絶対に張り合わなくてはいけない。シングル版と同じ歌い方ではダメだ。一体なんのためのロンドン録音なのか)。とはいえ、“ア・ア・ア”部分での歯車の噛み合いぶりを聴く限り、この異種格闘企画は、彼女が力をつける2~3年後であれば、ガチンコ勝負で一回性のマジックを生んでいたかもしれない。ロックは一に気力(気合い)、二に知力、三に体力、と勝手に定義すると、合格しているのは三くらい。ビートルズ「Birthday」風のリフが痛快な「Black Cab(ロンドン・タクシー)」(作詞作曲・ジョニー大倉)あたりはそこそこ善戦しているとは思うが。
 書きながら、ジョン・ライドンがビル・ラズウェルと組んだ(というか、対決した)P.i.L. の『ALBUM』というアルバムをふと思い出し、恐ろしく久々に聴いてしまった。ロックな百恵が聴きたければ、これよりも後年の『不死鳥伝説』('80年8月21日発売)がお薦め。

絶体絶命
作詞・阿木燿子/作曲・宇崎竜童/編曲・萩田光雄
from 「絶体絶命」(1978.8.21)/『ドラマチック』(1978.9.1)
 「プレイバック Part 2」の次のシングルで、ロック色を強めてツッパリ路線を引き継いだ。“馬鹿にしないでよ”に続く決め台詞は“やってられないわ”。どことなくピンク・レディー作品風なタイトル(曲調は「カルメン'77」?)とは裏腹に、女2人男1人の三角関係を描いたヘヴィな歌詞。私生児として生まれ、父親(本妻を取った)に裏切られた百恵にとっては、歌ってられないわ、と言いたくなる内容だったかもしれない。さあ、さあ、どうする、どうするつもり?という詰問に“二人共 愛してる”などと答える男は、憎みきれないろくでなしなのか、それとも、単なるろくでなしなのか。いずれにせよ、男を弾劾する方向に転ぶと、本気で洒落にならない歌になっていたように思う。阿木の鬼のような寸止めぶり、百恵のぎりぎりのツッパリぶりがスリリング。日本語の語感を追いながら勢いだけで作ったような宇崎節も切れまくり。曲先行だとこういう歪な歌は絶対にできない。どこを取っても破壊力抜群の快作(一応念を押すが、「勝手にしやがれ」vs「プレイバック Part 2」の返歌合戦がここでも続いていることに注意。どうして誰もこれを指摘しないのだろう。「憎みきれないろくでなし」は、「勝手にしやがれ」に続く沢田研二のヒット・シングルだったではないか。男のロマンチシズムに待ったをかける女のリアリズム。曲調の類似も含め、横須賀ファミリー、完全に喧嘩腰である。彼らの競争相手は、ピンク・レディーではなく、飽くまで沢田研二なのだ)。
 ちなみに、この歌の舞台である、男女3人が修羅場を迎えるカフェテラスは、「横須賀ストーリー」でかつて主人公が初恋の青年と熱いミルクティーを飲んだカフェテラスと同じ店に違いないと思う(特に根拠はない)。

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百恵と沢田研二。日本武道館、日本歌謡大賞の舞台裏にて('78年11月15日)

鏡の中のある日
作詞・阿木燿子/作曲・宇崎竜童/編曲・船山基紀
from 『百恵白書』(1977.5.21)
 タレント山口百恵の一日をテーマにした佳曲。朝起きてから夜寝るまで、オフステージの彼女の「素顔」が低血圧気味なモノローグで歌われる。好きな花、好きな色、行きたい所、好きな言葉、といった自己紹介を挿入し、アイドル雑誌の誌面をそのまま作品化したような詞作が冴えている(“コレクション……珍しい形のキイホルダー”というあたり、今聴くとかなりこっ恥ずかしくはあるが)。最後の“好きな人は……”の落とし方も鮮やか(この歌が、我々に、あるいは、我々が知らない誰かに向けられている可能性を同時に示している。答えが“ヒミツ”やら“トモカズ”だったらレコードを叩き割るところだ)。1年後の「プレイバック Part 2」を予告するような走行イメージ──“車の中でラジオを聞いて 知ってる歌ならハミングするの”──が登場するのも面白い(こちらは時速35kmくらいで、百恵は後部座席にいる)。音はボサノヴァ風味の緩やかなフュージョン/ジャズ・ファンクで、これは今の耳で聴いても普通に無茶苦茶カッコいい。『百恵白書』は、阿木が百恵の仕事に2日間ほど密着し、「等身大」の百恵像を描き出した重要なコンセプト作。阿木+宇崎が全曲を担当している。

プレイバック Part 1
作詞・阿木燿子/作編曲・馬飼野康二
from 『THE BEST プレイバック』(1978.6.21)
 「プレイバック Part 2」の勢いに乗って出されたベスト盤収録のレア曲。さすがに「Part 2」には及ばないが、こちらもかなりの力作。大胆なブレイクや台詞を挿入したドラマチックな構成・編曲で「Part 2」を巧みに踏襲(馬飼野康二のペンによる。先にタイトルとコンセプトが決定され、「Part 2」と同時進行で制作されていた)。大人の女の素振りをしたせいで破綻した彼との仲を回想するほろ苦い悔恨の歌で、「Part 2」とネガ/ポジのような関係を作っている。百恵の実年齢・実像に近いのはこちら。自叙伝『蒼い時』を参照すると、実際、彼女が初めて“女”になったのも、歌詞の通り、盛夏の暑い日だったという。切なく爽やかなサビ(“あれは真夏の出来事でした”)も良いが、何と言っても、シンセがビコビコと明滅するヴァース部分(“想い出の中の遠い季節 Play Back”)の闇雲な激走ぶりが素晴らしい。同じく馬飼野康二が編曲した「愛がひとつあれば」(千家+都倉作品。'75年『ささやかな欲望』収録)に電流を注いで改造したような趣も。

視線上のアリア
作詞・阿木燿子/作曲・宇崎竜童/編曲・萩田光雄
from 「乙女座宮」B面(1978.1.21)
 「プレイバック Part 2」のひとつ前のシングルで、乙女ポップス路線の最後となった「乙女座宮」のB面曲。タイトルは、音楽絡みの比喩を散りばめて恋人の視線を歌った詞に絡めた言葉遊び(“G線”の英語読みと掛けている)。サビは“愛と悲しみ 紙一重まぶた”と来る(わけわかんねー)。パンチの効いた8ビート・ロックで、ギターはほとんど「プレイバック Part 2」状態。サビの疾走感、ちょっとフランソワーズ・アルディあたりのフレンチ感も漂うアンニュイなリフレイン(“だから 強く”)が心地良い。「Part 2」まであと一歩。

たそがれ祭り
作詞・阿木燿子/作編曲・馬飼野康二
from 『THE BEST プレイバック』(1978.6.21)
 「視線上のアリア」は、しかし、どんなに頑張っても「プレイバック Part 2」にはならない。なぜかと言うと、ロックのビートでポルシェの加速度、滑らかなドライヴ感は絶対に出せないからである。となれば、あとはエンジンを変えるしかない。その答えがこれ。“足を止めないで 駆けていきましょう”“ねェ 好き? 聞いて良いかしら?”。メレンゲのビートで見事にブーストされる恋の高揚・疾走感。この乗りは「プレイバック Part 2」で、ほとんど4つ打ちハウスのようなグルーヴに昇華される(ピアノに注意)。「Part 2」まであと半歩。エンディングでは「Part 2」のイントロがもう顔を覗かせている。「プレイバック Part 1」+「視線上のアリア」+「たそがれ祭り」+αが「プレイバック Part 2」だと言っていい。

 ところで、'03年発売の山口百恵ボックス・セット『MOMOE PREMIUM』('07年『COMPLETE MOMOE PREMIUM』として更新)で発掘され、ファンの度肝を抜いたお宝未発表曲「東京の空の下あなたは」は、そのメレンゲ+ファンク+ロック・サウンドが、早過ぎた「プレイバック Part 2」的な様相を呈する衝撃作である。作詞作曲は天野滋(NSP)、録音は'77年『GOLDEN FLIGHT』のロンドン・セッション。アルバムの雰囲気にそぐわないためお蔵入りになったが、コンサートではしばしば取り上げられていたようだ。“馬鹿にしないでよ”ではなく、“バカね バカね バカね 私は”と自分を責めるいじらしさが、いかにも「プレイバック Part 2」の1年前。真紅なポルシェへの道は長かった!

プレイバック Part 2
作詞・阿木燿子/作曲・宇崎竜童/編曲・萩田光雄
from 「プレイバック Part 2」(1978.5.1)/『ドラマチック』(1978.9.1)
 変化球だらけの阿木+宇崎作品の中でも、まさに“消える魔球”級の超快(怪)作。海岸通りを真紅なポルシェでぶっ飛ばしながら、カーラジオでジュリーの歌を耳にする百恵。曰く、“勝手にしやがれ 出ていくんだろ”。この歌は沢田研二の前年のレコード大賞曲「勝手にしやがれ」(“寝たふりしてる間に 出ていってくれ”)への返歌になっていて、挙げ句の果てには天下の沢田をつかまえて“坊や”呼ばわりまでする。この年、レコード大賞は結局、天敵ピンク・レディーの「UFO」がさらい、作詞の阿久悠は3年連続受賞で王座防衛を果たした。ピンクには負けたが、それがどうした、ジュリーの歌う男の美学よりこちらの方が一枚うわ手だったことは間違いない。“緑の中を走り抜けてく真紅なポルシェ”──わざわざ啖呵を切るまでもなく、この冒頭一行の加速度だけでも勝負はついている(スピード・メーターがグングン上がっていくのが見えるようなギターのオブリガートも凄い)。こんな女に一体どんな男が追いつけるというのか。山口百恵、ぶっちぎりで賞。王者に向かってガチンコ勝負を挑んだ横須賀ファミリーの度胸と心意気に乾杯である(「勝手にしやがれ」が、そもそも阿木+宇崎による前年の内藤やす子「想い出ぼろぼろ」への返歌だった点を鑑みれば、先に仕掛けたのは阿久の側ということになるのだが)。ジュリーに百恵にピンク・レディー、あんたらの時代はよかった。

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「イミテイション・ゴールド」を歌い終えて舞台を去る百恵と、それを見る阿久悠('77年)

 余談だが、「プレイバック Part 2」と「飾りじゃないのよ涙は」(1984)に登場する主人公は、恐らく同一人物である。“速い車にのっけられても 急にスピンかけられても恐くなかった”──そんな女は、真紅なポルシェを飛ばしていたあの彼女しかいないのではないか(“私は泣いたことがない”と、泣かない女=百恵のアナロジーにも注意)。そして、再び王者・沢田研二。マイナー調、高速シャッフルの「飾りじゃないのよ涙は」の曲想を、井上陽水はずばり「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」(1981/作曲・沢田研二。大傑作ネオ・ロカ歌謡)から得たと思うのだが、違うだろうか。この曲で中森明菜という歌手は、井上陽水を介して、歌謡曲最後の牙城を守る宝刀を百恵と沢田から引き継いだのかもしれない(その後、'86年に阿木燿子が「Desire -情熱-」で援護し、彼女は沢田研二でさえ果たせなかった2年連続レコード大賞受賞の快挙を成し遂げる)。

オレンジ・ブロッサム・ブルース
作詞・阿木燿子/作曲・宇崎竜童/編曲・矢野立美
from 『パールカラーにゆれて』(1976.12.5)
 百恵+阿木+宇崎トリオ初期の隠れた大名曲。“あなた 実のなる花の好きな人 オレンジの季節には”。ここで宇崎が参照したのはエルヴィス「Summer Kisses, Winter Tears(夏に開いた恋なのに)」だと思うが、これが東洋的な湿気を帯びて、また別の美しい歌を生んだ。エルヴィス作品とは、メロディのみならず、恋人に置き去りにされる歌詞まで似ている。夏→冬という季節と心の移行を引き継ぐように、阿木は“冬から春まで待ってます”と書き出す。つまり、夏に開いて冬に散った恋の後日談になっている。タイトルは、ブルーグラスの古典「Orange Blossom Special」のもじりか(詞に“汽車”が登場するのは偶然なのか?)。メロディは、アダモ「En Blue Jeans Et Blouson D'cuir(ブルー・ジーンと革ジャンパー)」、あるいは、西田佐知子「信じていたい」なども思い出させる。アレンジや曲想は、同様にスティール・ギターをフィーチャーした松尾和子「オレンジの女」('75年9月5日発売『ラプソディー』収録。泉谷しげるが全曲を手掛けた名盤)にも通じるものがあり、色々と出自が想像される曲ではある。しかし、何より興味深いのは、百恵本人の歌唱。17歳の日本の小娘にどうしてこんなブルージーで艶っぽい歌が歌えるのか。私はこの曲を聴いて、山口百恵という歌手に完全に打ちのめされてしまった。宇崎が色々アメリカの音楽を聴かせていたとしても、すべて自分の手もとに引き寄せるこの感度と咀嚼力は本当に驚異的だと思う。一体、彼女はどんな音楽体験を持ち、どんな歌手を参考にこんな歌を歌っているのだろう。すごい実のなる百恵の花。
 サザンオールスターズ「そんなヒロシに騙されて」は、この曲に対するオマージュなのだろうか(“愛が消えてく 横須賀に”。かつて宇崎竜童が楽曲を手掛けていた高田みづえのカヴァーがヒット)。更に全く関係ないと思うが、かつてブランキー・ジェット・シティに「Orange」といういい曲があったことも個人的には思い出される。代表的なシングル曲しか知らない音楽ファンには、こういう百恵作品こそ聴いて欲しいと思う。

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百恵と強引に踊ろうとする宇崎竜童。危うし、百恵!

愛の嵐
作詞・阿木燿子/作曲・宇崎竜童/編曲・萩田光雄
from 「愛の嵐」(1979.6.1)/『春告鳥』(1980.2.1)
 百恵のツッパリ路線は激しさを増し、ここへ来て音がほとんどハード・ロックと化した。やたら仰々しい壮大なサウンドに乗せて歌われるテーマは「嫉妬」。その相手は、男と体を重ねながら微睡んでいる時に見た夢の中の女。独占欲が生んだ幻の女に嫉妬の炎をめらめら燃やし、“心の貧しい女だわ 私”と我に返って呟く主人公。複雑な女性心理を描いてどんどんハードルを上げていく阿木の詞世界に、体当たりの演技で百恵が挑む! “炎と書いてジェラシー ルビをふったらジェラシー”という阿木の問答無用ぶりも凄ければ、“ストーム ストーム……”と急転直下で決着をつける宇崎の背負い投げぶりも凄まじい。何だかよく分からないまま3人のテンションで押し切られる、威圧感たっぷりの劇画情念ソング。タイトルは、L・カヴァーニ監督、C・ランプリング主演『愛の嵐』のイタリア映画路線(耽美・頽廃・倦怠・官能系。ムードだけ借用。ヴィスコンティ監督、A・ヴァリ主演、中年女の情念メロドラマ『夏の嵐』というのもあったが)で、沢田研二の映画タイトル引用作品「勝手にしやがれ」(J・P・ベルモンド)、「サムライ」(A・ドロン。あるいは、鉤十字を晒したテレビ・パフォーマンスにおける『地獄に堕ちた勇者ども』気分。あれは恥ずかしい)、「ダーリング」(D・ボガード。これは関係ないか)、「カサブランカ・ダンディ」「時の過ぎゆくままに(=As Time Goes By)」(H・ボガート)の百恵版といった趣もある。
 尚、期待半分の憶測ではあるが、阿木がこの詞を書いた時、彼女の脳裡にあった“幻の女”は、ひょっとすると山口百恵その人だったのではないか。詞の中に登場する、紫の煙を一息吐き、好きだと容易く口にして屈託のない笑顔を見せる男にしても、阿木の宇崎像としか思えない(阿木によると、宇崎は夫婦間でも感謝や愛情をきちんと言葉で表現するラテン系タイプの男らしい)。阿木(当時33歳)の立場としては、旦那の宇崎が若い百恵(20歳)に喰われる悪夢のシナリオは、どこかで意識せずにはいられなかったような気がする。そんな歌を意識的に百恵本人に歌わせたのだとしたら、なかなかに凄まじい女の心理戦である(つまり、私の男=宇崎に手を出すな、と暗に牽制している。単なる詞作ゆえにいくらでもとぼけられる上、“心の貧しい女だわ”と安全弁をきちんと用意しているところが輪をかけて恐い)。果たして、百恵は阿木のこの殺気を感じ取っただろうか(感じ取って動揺したとしても、阿木に対して何も言うことはできない)。この1曲だけでも、阿木燿子がいかにおっかない女であるかが想像される。

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『愛の嵐』のランプリング。ジュリーも一時こんな格好で歌っていた。
「勝手にしやがれ」同様、歌の内容と映画自体は何の関係もない


タイトスカート
作詞・阿木燿子/作曲・宇崎竜童/編曲・B. Fasman
from 『L.A. BLUE』(1979.7.21)
 ロサンゼルス録音作『L.A. BLUE』収録のブルージーでエロいナンバー。世界中の男が流れつくサンフランシスコ港、夜明け前の娼婦の呟き(太平洋を隔てて横須賀と港繋がり)。“Black tight skirt 女の一生は小さなホックのかけ外し”という細部の描写から女の性がムンムン匂い立つ。まるで30過ぎのような百恵のイイ女っぷりが最高。20歳の日本娘がこんなにエロくていいのか。“外国人の男を誘うつもりで”というディレクションでもあったのかと憶測させる。その後の結婚・引退モードで途切れてしまうが、このツッパリ+エロ路線はとことん極めてもらいたかった。『L.A. BLUE』は軽いフュージョン・ポップ作品で、全体的には可もなく不可もない出来だが、エロの世界基準を意識して女に磨きがかかったのなら、海外録音も無駄ではなかったと思う。

ロックンロール・ウィドウ[single edit]
作詞・阿木燿子/作曲・宇崎竜童/編曲・萩田光雄
from 「ロックンロール・ウィドウ」/『メビウス・ゲーム』(1980.5.21)
 引退の5ヶ月前に発売され、湿ったムードを一掃した最後の特大打ち上げ花火。幸せな花嫁とは正反対の“ロックンロール未亡人”と化し、フルスロットルで突っ走る。先にタイトルのみディレクターの川瀬泰雄によって用意され、ツェッペリン「Rock and Roll」のような曲を、という注文に阿木+宇崎が応えた(つまり、“カッコ カッコ……”のフックは“Lonely, lonely...”の横須賀版)。宇崎が偉いのは、そこに必殺の2/4拍子──リトル・リチャード「Good Golly, Miss Molly」、あるいは、ビートルズ「Back In The U.S.S.R.」──を加え、120%の作品で注文に応えているところ。おまけに、イントロは「Satisfaction」。百恵も気合い十分、完璧な楽曲と歌いぶりで見事にロックしている。
 百恵+阿木+宇崎(その他、ブレインの酒井政利、現場の川瀬らを含む百恵制作チーム一同)がつくづく偉いのは、結婚・引退の年にこういう曲をシングルに切ってくるところだ。やはり山口百恵には独り身の不幸な歌うたいであって欲しい。日本全国から向けられる注目と期待を一身に浴びながら、全力で「山口百恵」を背負ってみせる歌謡界最後の女王。この曲がなかったら、彼女の'80年はどれだけ退屈でシケたものになっていただろう。この1曲にこそ当時のファンは救われ、涙したのではないだろうか。連発されたお別れ総括系ソング「さよならの向う側」(阿木+宇崎。Aメロ部分の爽やかさが良い)、「This Is My Trial」(谷村新司)、あるいは「秋桜」「愛染橋」などより、数百倍この曲は泣ける。

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引退公演翌日の'80年10月6日、テレビで「ロックンロール・ウィドウ」を歌う百恵

「山口百恵は“歌手”であると同時に“一人の女”でもあるわけだから、なんとも言えない部分があるんだけど、
 『結婚する』
 って言い始めた頃から、ツマんなくなった。
 一緒にラジオの番組をレギュラーでやってた頃、だんだん顔が変わってきた。ニコニコしてきた。なんか、ゆるんだような顔になってきて──。
 今さら言っても仕方がないけど、一人の女としては、幸せな家庭を持つ方がいいんだろう。でも、歌を作る方から言えば、面白くもなんともない。
 でも、“ロックン・ロール・ウィドウ”なんか歌ってるのを見ると、
 『イケルぜ、おまえ、まだよぅ、ビンビンいけるじゃねェか!』
 つい言いたくなったりしたものさ」(宇崎竜童・著『ブギウギ脱どん底・ストリート』/1983)

神様のおぼし召し
作詞・阿木燿子/作曲・宇崎竜童/編曲・萩田光雄
from 『THIS IS MY TRIAL』(1980.10.21)
 引退の一週間後に発売された最終アルバム収録曲。結婚して芸能界を去っていく百恵に、宇崎・阿木夫妻が送った最高の手向け。やがて生まれてくる子供は、男の子か女の子か。それは“どちらになっても神様のおぼし召し”。歌詞をすべて引用したくなるほど、とにかくこの曲は素晴らしい。2人からの餞別をしっかりと受け止める百恵。"Sock it to me!" とシャウト一発、ファンクの上にどっしり(安産型の?)腰を下ろしたヴォーカルが最強にカッコいい。最後の最後にしてこの軽みはどうだ。“泣かない女”と言われた山口百恵。やはり、彼女に涙は似合わない。さよならのかわりに、この歌がひとつあればいい。だって、その方がステキだから!

横須賀サンセット・サンライズ
作詞・阿木燿子/作曲・宇崎竜童/編曲・川口真
from 『曼珠沙華』(1978.12.21)
 “まだ胸の中で生きている 近くて遠い想い出の街”。百恵の横須賀総括ソング。急な坂道を駆けのぼり、丘の上から見つめた夕なぎの海。初恋の記憶と共に歌に焼き付けられたその情景は、いつまでも鮮烈な煌めきを失わない。横須賀の陽は落ち、そしてまた昇る。「山口百恵」という少女のドラマはここで完結し、「I CAME FROM 横須賀」へとループすることでひとつの美しい円環を作り出す。
 ちなみに、同じ横須賀の初恋風景は、「不死鳥伝説」('80年8月)でも改めて振り返られているが、そちらは百恵個人の引退と仰々しく絡められていて、正直、今聴くとちょっとキツい(断末魔のようなギター・リフに乗せた壮大な辞世。どう考えてもやり過ぎだが、そこが良かったりもする困った重要作)。


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 全15曲を順に睨んでいくと、ある程度の百恵ファンであれば分かると思うが、『横須賀から来た女』は三部構成になっている。
 「I CAME FROM 横須賀」「横須賀サンセット・サンライズ」をそれぞれプロローグ/エピローグとし、横須賀を舞台に少女の恋愛不全を歌う第一部(「横須賀ストーリー」「イミテイション・ゴールド」「絶体絶命」)、横須賀の女が真紅なポルシェでかっ飛ぶまでを追う第二部(「プレイバック Part 1」「視線上のアリア」「たそがれ祭り」「プレイバック Part 2」)、そして、比類なきエロかっこよさで、翔んでる女が女帝へと登り詰める第三部(「愛の嵐」「タイトスカート」「ロックンロール・ウィドウ」「神様のおぼし召し」)。これら三部の合間に「鏡の中のある日」「オレンジ・ブロッサム・ブルース」が幕間曲として配置され、場面転換を行っている。山口百恵のぶっちぎり伝説は、この三部の流れによって正確に掴むことができると思う。

 この編集盤を聴いて感じられるのは、山口百恵がいかに喧嘩の強い女だったかということである。実際、BCG注射の痕がケロイド状に残るがっしりした腕から放たれるパンチは強そうだし、大地をしっかり踏みしめる頑丈な脚から繰り出されるキックは、相当のダメージを相手に与えるものと推測される。何より、その歌唱が示す、死んでも引き下がらないような屈強な精神力、時に男気すら感じさせる肝の据わり具合が、彼女の喧嘩上等ぶりを物語っている(さすが、ダテにモハメド・アリと同じ日に生まれていない)。
 『横須賀から来た女』は、そんな無敵の山口百恵の姿をまざまざと今に伝えるのである。


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居酒屋(1956/仏)
GERVAISE
監督:ルネ・クレマン
原作:エミール・ゾラ
出演:マリア・シェル、フランソワ・ペリエ、アルマン・メストラル、シュジー・ドレール、ジャック・アルダン

 最後に脱線して、山口百恵ファンに1本の映画を紹介しておきたい。
 
 女の喧嘩、と言って私がどうしても思い出してしまうのが、ルネ・クレマン(『禁じられた遊び』『太陽がいっぱい』)が監督した『居酒屋』である。映画序盤、マリア・シェル演じる薄幸の主人公が、シュジー・ドレール演じる性悪女と洗濯場で取っ組み合いの大喧嘩をする有名な場面がある。髪をひっつかみ、バケツで水をかけ合い、床を転げ回り、洗濯用具で殴り合う、約4分間にわたる女同士の壮絶な闘いである。マリア・シェル演じる主人公はその喧嘩に執念で勝利するのだが、山口百恵を聴いていて私がふと連想したのが、そのシェルの姿だった。山口百恵はああいう場面で絶対に負けないタイプの女なのではないか。

 『居酒屋』の主人公ジェルヴェーズには、籍の入っていない男との間に2人の子供がいる。彼女が男に捨てられるところからその凄惨な物語は始まる。一人で貧しい家計を支え、同時に女として揺れながら、懸命に生きていくジェルヴェーズ。詳しい筋書きは伏せておくが、とにかく私は『居酒屋』の主人公に山口百恵の姿を重ねずにはいられない。
 もちろん、実際の彼女はもっと理知的だし、実生活では良き夫にも恵まれ、幸福な人生を送っているだろう。また、山口百恵という人は、たとえ突っ張っても、決してやさぐれてはいけないのだという思いもある。しかし、彼女であれば、このドラマの主人公を見事に演じることができたのではないか。『居酒屋』は、言うなれば、山口百恵にとって禁断のパラレルワールドのような物語だからである。

 私は198X年公開の幻の山口百恵主演映画『居酒屋』を夢想する。舞台は、敗戦から立ち直りつつある昭和20年代の横須賀がいい。主人公を取りまく男たちの中で、唯一まともな倫理観を持つ鍛冶職人のグージェ(ジャック・アルダン)役に三浦友和。ドレールが演じた、主人公を陥れるしたたかな悪女ヴィルジニー役は、もちろん阿木燿子に決まっている(ついでに、その亭主の巡査役で宇崎竜童にも出てもらう)。百恵と阿木の取っ組み合いの喧嘩は、さぞかし見応えがあることだろう。
 尚、エミール・ゾラ原作『居酒屋』には、ジェルヴェーズの娘ナナが成長して淫婦となり、芸能界で成り上がるという素晴らしい続編『ナナ』があることも付け加えておく(『女優ナナ』として3度映画化もされている)。


 ……と、ここで話を終わりにしたかったのだが、まだ少し続きがある。
 
 山口百恵のついでに沢田研二の古いアルバムをつまみ食いしていたところ、偶然にも「居酒屋」という曲を発見したのだ('78年12月発表『LOVE ~愛とは不幸をおそれないこと~』収録。作詞・阿久悠、作曲・大野克夫、編曲・船山基紀。同作家コンビによる'82年の五木ひろし&木の実ナナのヒットとは同名異曲)。
 そのジュリー版「居酒屋」、インスピレーションは間違いなくゾラの『居酒屋』である。これも当時の映画タイトル路線のひとつとして作られたものだったのだろう。というわけで、この映画はジュリー・マニアにもお薦めできる。



追記(’20年6月7日):
 山口百恵音源のサブスク解禁(’20年5月29日)に伴って『横須賀から来た女』をプレイリスト化し、本記事に埋め込んだ。サブスク未解禁曲「たそがれ祭り」はYouTubeでどうぞ。




山口百恵 Momoe Yamaguchi (part 1)
山口百恵 Momoe Yamaguchi (part 3) ~『VITA SEXUALIS』

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