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伝説の向う側──山口百恵 制作ディレクター回想記



 山口百恵の引退30周年を機に、これまで5枚組DVDボックス『ザ・ベストテン 山口百恵』('09年12月)、6枚組DVDボックス『山口百恵 in 夜のヒットスタジオ』('10年6月)という2つの画期的な商品が発売されたが、それに比肩する爆弾級アイテムの登場だ。

 デビューの'73年から引退の'80年まで、山口百恵のシングル/アルバム制作を手掛けた音楽ディレクター、川瀬泰雄。レコーディング・アーティストとしての山口百恵を誰よりもよく知る彼が、当時のレコード制作現場の貴重なエピソードをふんだんに交えながら、自ら百恵作品を全曲解説するという、とんでもない書籍の出版である。山口百恵が少女アイドルから時代を象徴する大歌手になっていくまでの驚くべき過程を、彼はずっとスタジオの密室内で目撃し続けた。私は氏によるこのような回想記が出るのをずっと待っていた。まさしく全百恵ファン必携のバイブルの誕生である。


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プレイバック 制作ディレクター回想記 音楽「山口百恵」全軌跡
川瀬泰雄・著
学研教育出版
2011年2月25日第1刷発行
¥2,415(税込)

楽曲、編曲、レコーディング制作ドキュメント
全シングル・アルバムの解説&エピソード満載!
「スター誕生!」からデビューし、国民的大スターへと成長した山口百恵の全ドキュメント。
その軌跡を制作ディレクターが書き綴った。
数々の名曲が生まれた背景、歌手としての成長を、シングル&アルバム制作の現場から紹介する。



 川瀬泰雄('47年、横浜生まれ)は、大学卒業後の'69年、ホリプロのレコード制作部門である東京音楽出版に入社し、そこで、デビュー直後の和田アキ子に始まり、井上陽水(a.k.a. アンドレ・カンドレ)、浜田省吾、荒木由美子など、多くの歌手のレコード制作に携わった。ホリプロ退社後もフリーの音楽プロデューサーとして活躍し、現在までに手掛けた作品は1600曲に及ぶという。山口百恵は彼が手掛けた最も代表的な歌手。ディレクター/プロデューサーとして、彼は百恵の3枚目のシングル「禁じられた遊び」('73年11月発売)から、彼女が引退する最後まで、一貫して百恵作品の制作を手掛けている。

 山口百恵のプロデューサーと言うと、一般的にはCBSソニーの酒井政利(他に南沙織、郷ひろみ等を育てた有名プロデューサー)が知られるが、両者の役割は大きく異なっている。酒井政利が主に曲のコンセプト(タイトル、イメージ、方向性など)を考える一方、それを具現化するべく現場で細かいディレクションを行っていたのが川瀬泰雄。酒井の存在があるため、川瀬泰雄は“ディレクター”とされることが多いが、実際の制作現場においては、川瀬がいわゆる“プロデューサー”、酒井は“エグゼクティヴ・プロデューサー”の役割を担っていた(いくつかのレコードでは実際そのようにクレジットされている)。

 具体的な制作プロセスとしては、例えば「プレイバック Part 2」の場合、まず酒井が“ケロケロってテープの音が戻るような曲、あとは金塚さん(金塚晴子。ソニーのディレクター)と考えて下さい”とひどく大まかなアイデアを出し、丸投げされた作品案を川瀬&金塚が“主人公が以前聞いた言葉がフィード・バックしてくる歌”という企画に纏め、それを作詞作曲家に発注する。「美・サイレント」の場合も、“口パクで、歌わない歌を作りましょう”という酒井の一言が最初にあり、あとをすべて川瀬らが引き継ぐという形で曲が出来上がっている。つまり、酒井政利が、売れる音楽を考えるアイデアマン、マーケティング能力に長けた戦略家(ノン・ミュージシャンであるがゆえ奇抜な発想もできたのだろう)であるのに対し、自らミュージシャンでもある川瀬泰雄は、より具体的に楽曲やサウンドを思い描き、実際に現場で音楽を完成させていくクリエイター、あるいは、職人的な役目を負う。ひどく極端な言い方をすると、酒井政利が作っていたのは“商品”、川瀬泰雄が作っていたのは“作品”だったかもしれない。この2つの異なるベクトルの交差点で、山口百恵の音楽は生まれていた。

 建設現場で言うと、作詞作曲家は設計士、ミュージシャンと百恵は建設作業員、川瀬泰雄は現場監督に当たる。酒井政利は、本社から時々現場の様子を見に来る施行主といった感じだろうか。川瀬は常に他の誰よりも間近で山口百恵の作業を見ていた。百恵がたとえネジ1本締め忘れても、彼は見逃さない。どんな突貫工事であろうと、手落ちがあってはならないのだ。
 回想記『プレイバック』の中に、現場監督としての川瀬泰雄の姿勢を端的に示すこんな文章がある。ちょっと長くなるが、引用させてもらう。

「レコーディングでのある時のこと(百恵自身は覚えていないかもしれないが)、何か百恵の歌がいつもと違って詞の世界に入ってきていないと僕は思った。音程もリズムも決して間違ってはいないのだが、何かいつもと歌が違うのである。微妙な違いであっても僕にとっては、明かな違いと思えたのだった。
 何度かやり直した挙句、とうとう僕は“今日はやめよう”と言ってしまった。
 他のスタッフは“どうして中止なの? よく歌っているじゃないか”というような不思議な顔をしていた。僕がいつもと違うのだということを説明しても、誰もわかってくれなかった。酒井氏は僕に“何を芸術家みたいなこと言ってるの”と非難するほどだった。
 マネージャーに言って翌日のレコーディングのスケジュールをもらい、その日は中止した。その中止にしてしまった理由の、僕だけが感じた違和感というものが、百恵本人に理解されていたかどうかはわからなかった。翌日、他の仕事を終わってから昨日の曲をレコーディングし直した。昨日とまったく違って素晴らしい歌になっていた。それは僕にとっては感動するくらいの違いだった。マネージャーに昨日の終わってからのことを聞くと、“今日も早朝から撮影が入っていたので、百恵は悩んだ挙句一睡もしてないと思います”とのことだった。
 このことは僕の勝手な思い込みだったのかもしれないが、いい結果になったこともあり、その後のレコーディングに関しても、今まで以上に真剣に取り組まなければいけない気持ちになったのは言うまでもない」

 唐突ではあるが、ついでにマイケル・ジャクソンの自伝『ムーンウォーク』(田中康夫・訳)から引用してみたい。

「ミケランジェロに、そして彼の仕事への魂の注ぎ込み方に僕は心酔しています。彼には、自分はいつか死ぬが、自分がやった仕事は生き続けるのだということが、心から解っていたのです。彼が、全霊を込めて、システィーナ礼拝堂の天井に壁画を描いたのは、みなさんも知っていることと思います。ある箇所は、それを破壊してまで、描き直したものです。彼はそれを完璧なものにしたかったのです。彼はこう言ったものです。“もしもワインが酸っぱかったなら、捨てなさい”」

 川瀬泰雄がミケランジェロやマイケル・ジャクソン級の天才かどうかはともかくとして、彼がこの2人と同じくらい高い志しと強い情熱を持って仕事に臨んでいたこと、そして、それが百恵作品を堅牢なものにしたことは間違いないように思われる。“商品”はその時に売れればそれでいいかもしれない。しかし、“作品”はいつまでも残り、後の人々の耳にも触れるものだ。山口百恵の音楽が築30年以上経っても全く老朽化せず、多くの音楽ファンにとって心の拠り所となっているのは何故なのか。この本を読むと、その理由が見えてくる。

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'77年、ロンドンのエア・スタジオでアルバム『GOLDEN FLIGHT』録音。お隣さんはウィングスです!
(何気に他界4ヶ月前のマーク・ボランが第1スタジオに……)


 川瀬泰雄は大のビートルズ・フリークとしても知られる。最近では、ビートルズ・サウンドを完全コピーしたえらくマニアックなCDエクストラ・シリーズを制作したり、自らビートルズ研究本まで執筆しているほどだ。彼はビートルズに倣い、百恵のアルバムを“シングル曲+埋め曲”という構成から、ひとつの纏まりを持った作品集へと変化させ、百恵をアルバム・アーティストとして成長させていった。中には、シングル曲を全く収録しない、思い切ったコンセプト・アルバムの類もいくつかある。百恵はそこで自分の歌をどんどん深化させていった。

 酒井政利はシングルの企画には異様なこだわりを見せたが、アルバムに関してはあまり興味を示さず、ほとんど川瀬泰雄に任せきりだったという(酒井のこの無責任さは高く評価したい)。ビートルズ仕込みの川瀬の音楽センスが発揮されたアルバム群の充実は、間違いなく山口百恵の根強い人気の理由のひとつである。私が山口百恵を聴くようになって、まず驚いたのもアルバムの質の高さだった。百恵のヴォーカルや楽曲だけでなく、バンドの演奏、アレンジ、ミックスなど、サウンド・プロダクションが実にしっかりしている。歌謡曲特有の音のショボさもなく、とにかく音がいい。海外のポピュラー音楽しか聴いてこなかった私の耳にも、百恵作品は違和感なく馴染むものだった。

 百恵のレコード制作を通して、川瀬泰雄は単に自分の趣味を実現していたわけではない(そういう部分も見られないわけではないが)。彼は、歌手・山口百恵の最大の理解者であると同時に、最大のファンでもあった。'78年のコンセプト・アルバム『COSMOS(宇宙)』制作時のことを振り返り、彼はこう書いている。

「この頃の僕は、歌手山口百恵としての実力を正当に評価してほしいと常々思っていた。自分でもよく覚えているのだが、何かそう思わされるような出来事が確実にあったのだ。単純にアイドル出身だから聴かないみたいな人が、中途半端な批判をしているのを噂で聞くと、一度でいいから百恵を聴いてみてくれ、中途半端なロック・アーティストより全然、百恵の方がロックだぞ、といいたかったのだ」

 そうなのだ。“単純にアイドル出身だから聴かないみたいな人”は当時もいたし、今でもいる。“一度でいいから百恵を聴いてみてくれ”という制作者の強い思いは、そのままファンの思いとも重なる。回想記『プレイバック』は、単なるレコード制作ドキュメントであるだけでなく、山口百恵という歌手に惚れ込んだ一人の音楽ファンの熱い百恵言説集でもあるのだ。

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百恵も読んでます!? 川瀬泰雄の『プレイバック』絶賛発売中

 山口百恵に関する書籍はこれまでにも数多く出版されてきたが、歌手としての百恵に焦点を絞った本は意外にも少ない。彼女の音楽作品についてまともに書かれた本となると、結局、平岡正明『山口百恵は菩薩である』(1979)くらいしかないという寒い状況が延々と続いていた。今回の『プレイバック 制作ディレクター回想記 音楽「山口百恵」全軌跡』(タイトル長え~)は、まさにファン待望の百恵音楽本ということになる。

 川瀬泰雄という人は、早い話が、百恵作品におけるジョージ・マーティンである。ジョージ・マーティンが自らビートルズの全曲解説をするような本が面白くないわけがないのだ。彼はこれまでにもテレビやラジオの百恵特番、あるいは、百恵のベスト盤CDのライナーなどで当時のことを回想しているのだが、とにかく、百恵関係者の中でもこの人の話は抜群に面白い。さすが現場監督だけあり、制作当時のことを実に細かくよく覚えていて、この回想記でも貴重な逸話が次から次へと飛び出してくる。音楽制作者ゆえ、アレンジ、ミックス、使用楽器・機材など、音作りのディテールに関する話も豊富だ。触発された作品やアーティスト名、クレジットからは詳細が分からない参加ミュージシャンなどについて具体的に触れられているあたりも興味深い。彼は自分の持っている記憶と記録と音楽的蓄積を総動員して、百恵作品の聴きどころを徹底的に解説する。まるでビートルズ研究本のような掘りっぷりは、現代のマニアックな音楽リスナーの欲求に完璧に応えるものだろう。実際にレコードを制作した本人という点を差し引いても、この人の百恵作品の聴き込みようはとにかく半端でない。ここまで聴かれれば、百恵本人も幸せだろう。

 回想記『プレイバック』は、ディレクター川瀬泰雄の百恵作品に関する記憶と思いを集大成した、まさに“読む百恵アンソロジー”である。全シングル、アルバムに関する解説が時系列で並び、しかも、記述が曲単位で分かれているので、実際に作品を聴く際のガイドとして重宝する(ハードカバーの本だが、寝転んで気楽に読めるよう文庫版も欲しい)。また、通して読めば、百恵の歌手としての成長過程が浮かび上がる。編曲家の萩田光雄、川瀬の相棒だったソニーのディレクター金塚晴子との鼎談が収録されているのも嬉しい。決して百恵初心者向けとは言えないが、既に百恵の全作品を聴き込んでいるマニアはもちろん、これから本格的に百恵作品を聴いていこうという人にとって、この本は必携である。百恵ファンにとって、これほど幸福感を与えてくれる本はない。百恵鑑賞・百恵研究において絶対に欠かすことのできないバイブルの誕生。ボケないうちにこの歴史的回想記を執筆してくれた川瀬氏に心から感謝したい。


まだまだ百恵が足りない!

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 今から2年前、'09年2月4日の“山口百恵の歌手復帰を真剣に考える”という記事の中で、私はビートルズに倣ったアンソロジー企画が山口百恵においても実現されるべきではないか、と書いた。'90年代に大きな話題となった“ビートルズ・アンソロジー”は、未発表音源(CD)、映像(TV放映/ソフト)、書籍の3つでバンドの足跡を振り返る画期的なドキュメンタリー・プロジェクトだった。私は、同じようなマルチメディア・ドキュメント“百恵アンソロジー”が制作されることを祈願したのだった。

 その後、意外なことに、最も実現が難しいように思われた“映像版アンソロジー”が、『ザ・ベストテン 山口百恵』、『山口百恵 in 夜のヒットスタジオ』という形で次々と実現した。そして、今回の川瀬泰雄・著『プレイバック 音楽「山口百恵」全軌跡』は“書籍版アンソロジー”の実現と言っていいだろう。残るは“音源版アンソロジー”だけである。

 『プレイバック』を執筆するに当たって、川瀬泰雄は過去の様々な記録を掘り起こしている。阿木燿子、松本隆ら作詞家の生原稿(『プレイバック』にも数点掲載)、阿木が書いたアルバム企画書などがきちんと残っているのもすごいが、特に興味深いのは作曲家のデモ音源である。『プレイバック』の中には、例えば、宇崎竜童の「横須賀ストーリー」デモに関するこんな記述がある。

「宇崎氏がデモテープで弾いていた、ギターのセブンス・コードで盛り上げてから歌に入る、というイントロも、シンプルでカッコよかったのだが、萩田氏のアレンジは、この曲をさらにパワーアップさせていた」

 「横須賀ストーリー」のあの印象的な半音反復リフのイントロが、実は編曲家の萩田光雄が考えたものだったという驚きの事実がここで明かされている。作詞作曲家に較べてあまり注目されることのない編曲家の功績は、デモと完成品の比較によって明白になる。また、作家自身の歌を聴くことで、私たちは百恵の作品解釈についても知ることができるだろう。表現者としての山口百恵が、そこで自ずと浮かび上がるはずだ。そのデモ音源は絶対に公開する意味がある。他にも、“僕の手元にある、当時の宇崎氏のデモテープでのメロディ自体は~”(「オレンジ・ブロッサム・ブルース」)とか、“宇崎氏によるエレキギター1本のデモテープがすごかった!”(「イミテイション・ゴールド」)とかいう記述を読むたびに、“それを今すぐ聴かせろ!”と思わず本に向かって叫んでしまう。

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百恵作品を書くプレッシャーで円形脱毛症になってしまったこともある宇崎竜童

 学研による川瀬泰雄インタヴューによると、今回、彼の自宅で百恵用の作家デモが80曲分ほど発掘されたという。なんと、宇崎の百恵用デモに関してはほぼ全曲分残っているらしい(やったぜ!)。それは重要文化財だ。いつどんな天災が襲ってくるか分からない。そのデモテープ類は今すぐ頑丈な金庫に保管するべきだ(なんなら私が預かってもいい)。

 『プレイバック』では、デモ音源の他にも、今まで存在すら知られていなかった未発表曲「百恵飛行」(阿木+宇崎作品。歌メロの音域が広すぎるためお蔵入りした『GOLDEN FLIGHT』アウトテイク)、「しなやかに歌って」「謝肉祭」の別アレンジ録音、倉庫のどこかに眠っているらしいキーが低いヴァージョンの「秋桜」等々、レアな未発表音源についての言及がいくつも見られる。読んでいるだけで涎が出そうだ。

 果たして、回想記『プレイバック』は“音源版アンソロジー”への布石なのか? それとも、未発表音源集を制作する代わりに回想記を書きました、これで我慢してちょ、ということなのか?

 デモ、別アレンジ、ボツ曲などの未発表音源は、もちろん、然るべき理由があって未発表になっている。本来、それらは人々に聴かれるべきものではない。マイケル・ジャクソンの未発表曲集『MICHAEL』(2010)の発売を巡っても、マイケルの意に反する、発表するべきではない、という否定的な意見がファンの間ですら少なからずあった。
 しかし、それはあまりにもナイーヴというものである。特に歴史に名を残す重要なアーティストの場合、あらゆる遺産は研究の対象として発掘され、保存されていく運命にある。子供の時の作文や教科書の落書き、友人宛の書簡、恋人への恥ずかしいラブレターも、すべて立派な研究資料になり得る。たとえいま隠しても、後世の誰かがそれを見つける。墓はいつか必ず暴かれる時がやって来る。

 もし川瀬氏がそれらの音源を未発表のままにしておくべきだと飽くまで考えるなら、今すぐそれらを処分するべきだろう。しかし、それだけはやって欲しくないし、川瀬氏がそんなことをやるとも思えない。それらの記録は、誰よりも川瀬氏にとって大切な宝物に違いないからだ。ならば、後世の誰かに勝手に手をつけられる前に、自らの手で然るべき編纂の上、発表するしかないのではないか。男ならやるしかないのではないか。
 デモ音源の発表に関しては、もちろん、歌っている作家本人の許諾が必要だろう。宇崎も谷村新司もさだまさしも浜田省吾も井上陽水も、“発表することを意図して歌っていないから困る”などとケツの穴の小さいことを言ってはいけない。山口百恵という大歌手に曲を提供したのが運の尽きと諦め、是非とも公開を快諾して欲しい(もっとも、一番厄介なのは権利問題かもしれないが……)。

 同時に、ラジオ番組でのパフォーマンス音源、地方公演のライヴ音源なども捜索して欲しい。徹底的に探せば、ボックスセットに十分な数の素材が揃うはずだ。

※まとまった形で未発表コンサート音源が存在する場合、別にセットを組むのが望ましい。最低でも、'79年と'80年の新宿コマ「百恵ちゃんまつり」音源は発掘してもらいたい(残っていないわけがないと思うのだが)。地方公演音源は、サウンドボード録音が存在しない場合、ファンからオーディエンス録音を募り、“MOMOE BOOTLEG SERIES”とでも銘打ってソニーのサイトで限定発売すればいい。私はどんな音質でも喜んで買う。


謎の数字“33”が示すものとは?

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アルバム『不死鳥伝説』('80年8月21日発売)

 来るべき山口百恵の未発表音源集『THE MOMOE ANTHOLOGY』(仮題。『MOMOE... NAKED』というのもエロくて良い)。そこで注目したいのが、百恵が引退する約2ヶ月前に発表されたアルバム『不死鳥伝説』のアートワークである。『不死鳥伝説』のLPジャケットはゲートフォールド仕様になっており、正面を向いた百恵のバストショット写真4テイクが、それぞれ表ジャケ、見開いた内ジャケ左右、裏ジャケに配置されている。撮影は篠山紀信、デザインは横尾忠則。横尾によって彩色が施された4枚の写真の背景には、面白いことに、それぞれ異なる数字が散りばめられている。

 この数字に関して、川瀬泰雄は著書の中でこう書いている。

「見開きジャケットの4面の百恵の上に絵の具で色が塗られ、それぞれに“33”“21”“15”“10”の数字が書いてあるのだが、その時確かめていないのでまったく意味が不明だ。無理やりこじつけると21歳10月15日が正式に引退日ということで3つの数字は当てはまるのだが、“33”がわからない。自分ではこの時の僕の年が“33”だったので自分なりの妙な納得の仕方を当時はしていた記憶がある」

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4面のジャケット背景に書かれた“33”“21”“15”“10”の数字

 “21”“15”“10”が百恵の引退を示すという点は恐らく間違いないだろう。3つが百恵の引退に纏わる数字できれいに揃っているのは偶然とは思えない。しかし、表ジャケの“33”は何を意味するのか? 引退を示す数字であれば、代わりにむしろ1980年を意味する“80”(または昭和の“55”)が来るのが妥当だろう。

 “33”という数字から連想されるものは何か? まず、それはLPレコードの回転数である(「しなやかに歌って」で阿木燿子はこの数字を詞に織り込んでもいる)。それは百恵の愛称“モモ”と読むことができる(ついでに三浦の“三”とも繋がる)。また、それは仏教における聖数でもある(観音菩薩が33種類に姿を変えることに因む。京都の三十三間堂はこの数字がそのまま寺院名になっている)。そして、それはイエス・キリストの享年でもある。この中に答えがあるのか?

 謎の数字“33”が記されたアルバム『不死鳥伝説』を実際に聴いてみよう。阿木+宇崎が書いた表題曲「不死鳥伝説」は、引退をテーマにした山口百恵の壮大な“辞世の歌”である。ハードロック調の激しいサウンドに乗って、サビで百恵はこう歌う──“蘇ると約束するわ あなただけの胸に再び like a 不死鳥(フェニックス)”。
 
 百恵の引退を示す“21”“15”“10”という数字。表ジャケに記された“33”は、もしかすると、引退とは逆に、百恵の復活を示すものではないのか。“33”という数字と関連して、百恵は不死鳥の如く、あるいは、イエスの如く蘇るということではないのか?

 ここで、再来年の2013年という年に注目したい。2013年は、山口百恵のデビュー40周年となる大きな節目の年である。その年は、'80年の百恵の引退から数えると、ちょうど33年目に当たる。そして、そこで仮に山口百恵が歌手復帰を果たし、奇蹟の新曲がシングル発売されることになった場合、それは、'80年11月19日発売「一恵」に続く、彼女の通算33枚目のオリジナル・シングルになるのである。33年ぶり、33枚目のシングルで百恵復活! 私は平岡正明の支持者ではないが、故人の代わりに書いてあげるなら、33枚目のシングルによって百恵は最後の変身を果たし、菩薩として証明されることにもなる。山口百恵はやっぱり菩薩だった。ありがたや~!

 どうだ。“ポール死亡説”並に説得力のあるこの“引退33年後百恵復活説”。横尾忠則が実際どういうつもりで“33”の文字を書いたかは知らないし、そもそも、横尾本人の意図など大した問題ではない。芸術作品は作者の手を離れて輝くものである。そういう風に読める、ということが大事なのだ。

 '09年、主婦の三浦百恵さんがプライベートで宇崎・阿木夫妻と29年ぶりの対面を果たした。回想記『プレイバック』の中には、“最近、金塚さんと百恵と3人で久しぶりに食事をしたのだが~”などという何気にすごいことが普通に書かれていたりもする。これらの再会は一体何を意味するのか(何も意味していない?)。

 2013年、未発表曲集『THE MOMOE ANTHOLOGY』の発売に伴い、山口百恵が新曲と共に最初で最後の復活を果たし、百恵伝説が完成される。『不死鳥伝説』ジャケに記された“33”の数字がそれを確かに予言している……というか、“そういうことにしませんか?”というのが、ここで私が最も力説したいことである。これ以上のシナリオがあるだろうか?

 “山口百恵の歌手復帰を真剣に考える”で書いた通り、2013年は、恐らく百恵にとって再び歌う最後のチャンスとなる極めて重要な年である。“百恵伝説”だとか“百恵神話”だとか、そういうことはむしろこの際どうでもいい。死ぬ間際になって“ああ、あの時みんなでもう一度集まれて良かった”と思えるのは、きっと幸せなことに違いない。誰もがその再会を望んでいるはずだ。まだ歌えるうちに、耳が聞こえるうちに、きちんと歩けるうちにやるべきなのだ。人生、悔いが残ってはいけない。早急に手が打たれなくてはならないだろう。

 百恵、ゲットバック!!
 百恵、プレイバック!!


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