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Dorothy Dandridge (part 1)

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 アメリカのアカデミー賞で、黒人として初めて最優秀主演賞にノミネートされた男優は誰か?

 答えは、シドニー・ポワチエ(『手錠のまゝの脱獄』1958)。これは知らなくても割と容易に察しがつくだろう。それから間もなく、彼は『野のユリ』(1963)で黒人初の最優秀主演賞受賞者にもなった。

 さて一方、黒人として初めて最優秀主演賞にノミネートされた女優は誰か?

 それが、このドロシー・ダンドリッジである。ポワチエがノミネートされる4年前、主演作『カルメン』(1954)での演技が評価されてのことである。しかし、彼女は遂に受賞を果たすことはできなかった。

 では、最優秀主演賞を実際に受賞した初の黒人女優は誰だろう?
 答えは後述することにしたい。


 ドロシー・ダンドリッジ(1922~65)は、“黒いマリリン・モンロー”とも言われた、黒人初の国民的ハリウッド・スター女優。ポワチエほど多くの功績こそ残さなかったが、白人支配のアカデミー賞で黒人として初めて主演賞に手をかけ、来るべき新時代への大きな一歩を踏み出したのが彼女だったことは、人々の記憶に永遠に留められるべき重要な事実だ。'54年と言えば、『波止場』『喝采』『麗しのサブリナ』『スタア誕生』『裏窓』などが公開され、映画がまだ娯楽の王様として君臨していた時代。そこで、助演ではなく、主演女優賞(つまり、女王)候補として黒人がエントリーされることがいかに大事件だったかは、当時のアメリカの社会状況を考えれば容易に想像がつく。

 公立学校における人種隔離が最高裁で違憲とされた“ブラウン判決”('54年)、バス座席の人種隔離に抗議したアラバマ州の“モンゴメリー・バス・ボイコット事件”('55年)、人種共学を巡って知事と連邦政府が対立したアーカンソー州の“リトルロック高校事件”('57年)、簡易食堂の白人専用席で黒人学生らが座り込みをしたノース・カロライナ州グリーンズボロの“コーヒー・パーティ事件”('60年)、黒人白人が共にバスで南部を巡り、公共施設での差別に挑んだ“フリーダム・ライド運動”('61年)、そして、20万人以上が参加した黒人解放運動の頂点“ワシントン大行進”('63年)。ドロシー・ダンドリッジのアカデミー主演女優賞ノミネートは、こうした一連の公民権運動激化の流れにおいて、その初っ端に起きた、非常に画期的かつ象徴的な出来事として振り返ることができるのである。

 女優としてのキャリアが有名なダンドリッジだが、しかし、彼女は同時に歌手でもあった。そして、写真を見ても分かる通り、抜群の美人である。
 歌うブラック・ビューティ、黒いセックス・シンボルの偉大な先人としてだけでも、彼女をシャーデーの源流として取り上げる価値は十分だが、ダンドリッジをここで紹介する理由はそれだけではない。実は彼女、シャーデーと同じく「Smooth Operator」というとんでもない曲を歌っているのである。


DD Smooth Operator 「Smooth Operator」は、'99年にVerveから発表された彼女の同名編集盤に収録されている。表題にもされている通り、「Smooth Operator」がこのアルバムの最大の目玉曲。アルバム収録内容は、オスカー・ピーターソンのカルテットをバックに、「It's Easy To Remember」「The Nearness Of You」「Body And Soul」などのスタンダード・バラードをしっとり歌う'58年1月録音の12曲。加えて、ビッグ・バンド・オーケストラをバックに力強いヴォーカルを聴かせる'61年2月録音の4曲。そして、この全16曲中、なんと「Smooth Operator」を含む14曲が、この'99年の編集盤で初めて陽の目を見た音源なのである。

 こう書くと、何やらえらくマニアックな発掘モノのように思われるかもしれないが、これは重箱の隅をつつくような単なるレア音源集ではない。実は、彼女はステージ歌手として成功していたにもかかわらず、レコーディング・アーティストとしては全くと言っていいほど機会に恵まれず、アルバムが一枚も存在しないばかりか、音盤用に残された録音自体もキャリア初期の僅か数曲程度、おまけに、主演したミュージカル映画も肝心の歌は吹き替え、といった具合で、その歌手としてのキャリアはほとんど歴史の中に埋もれたような状態だったのだ。つまり、この'99年の未発表音源集によって、後世の我々はようやく“歌手ドロシー・ダンドリッジ”にまともに再会できるようになった。その点だけでも、この編集盤がいかに価値あるものか理解されると思う。

 まず、大半を占める'58年録音の12曲だが、実を言うと、これがさっぱり面白くない(笑)。当然アルバム発売を意図した録音だったはずだが、お蔵入りしたのも頷ける何とも微妙な内容なのだ。
 彼女は、中~低域を中心に、基本的に味やキャラで聴かせるタイプの歌手である。ここでは、ビリー・ホリデイをソフトに気怠くしたような歌唱を披露しているのだが、これがどうにも彼女の個性と合っているように思えない。また、繊細なバラード楽曲中心ということもあり、技術的な粗もかなり目立つ(本人の調子自体もあまり良いとは思えない)。決して下手な歌手ではないのに、結果的には、表現力の浅さを感じさせる三流歌手のような歌になってしまっている。これはどう考えてもディレクション・ミスだ。

 そう言い切れるのは、同時収録されている'61年録音の4曲が段違いに良いからである。件の「Smooth Operator」はこちらの産物。他の3曲は、「Somebody」('60年の映画『底抜けシンデレラ野郎』より)、「Stay With It」「It's A Beautiful Evening」(共にナット・キング・コールの'60年作『WILD IS LOVE』より)というラインナップで、かなり新しめの楽曲が取り上げられているのが特徴。この内、「Somebody」「It's A Beautiful Evening」の2曲は流麗なオーケストラ伴奏のバラードで、割と凡庸な出来ではあるものの、'58年録音に較べれば遙かに伸び伸びとした歌唱を聴かせる。
 そして、何と言っても突出しているのが、ビッグ・バンドを従えて豪快に歌い飛ばすアップ「Smooth Operator」「Stay With It」の2曲。ここでの彼女は'58年録音とは別人のようで、張りのある生き生きとした声で、持ち前の健康的な色気を振りまいている。昔の歌声と較べると著しく枯れてはいるが、まさしくダンドリッジのパブリック・イメージ通りの歌唱で、素晴らしく魅力的なのだ。このアルバムはとにかくこの2曲に尽きる。

Sarah 「Smooth Operator」は、サラ・ヴォーンの'59年のヒット曲を取り上げたもの。オリジナルはアコギのズンドコ・リズムとコミカルなバック・ヴォーカルが印象的なノヴェルティ調のポップ・ソングで、ヴォーンの歌も茶目っ気たっぷりだ(Mercury時代の彼女のベスト盤『GOLDEN HITS!!!』収録)。作者は、ブルック・ベントンやダイナ・ワシントンを手掛けたことで有名なMercury所属のA&R、クライド・オーティス Clyde Otis(a.k.a. Cliff Owens)。黒人として初めて大手レーベルの重役になったことでも知られる人物である(エルヴィス・プレスリーにも楽曲提供あり)。

 ドロシー・ダンドリッジのヴァージョンは、ビッグ・バンド編曲で非常にジャズっぽい雰囲気の仕上がり。“チャチャチャ”と囃すバック・ヴォーカルに想を得たのだろう、ずばりラテン調でグッと乗りが増しているのもクール。コロコロと声色を変えながら、彼女の独擅場で最後まで見事に聴かせる。無声音で色っぽく歌うサビのフック、ヴォーン以上にウィットの利いた歌い崩し具合がとりわけ素晴らしい。“黒いマリリン・モンロー”と言われた彼女のセクシー・ダイナマイトぶりが堪能できる逸品である。ヴォーン版も愛嬌があって良いが、これを聴くと、まるで「Smooth Operator」がダンドリッジのために書かれた曲であるかのような錯覚すら覚えてしまう。

 この「Smooth Operator」とシャーデーの同名曲を較べると、表題フレーズの節回しに共通点があることに気付く。シャーデー版「Smooth Operator」の作者であるレイ・セントジョンは、果たしてこの同名楽曲の存在を知っていたのだろうか?
 ダンドリッジのヴァージョンが世に出たのは'99年になってからのことなので、これが参照されたということはあり得ない。この“引用”が意識的なものであったか否かはともかく、この類似は、「Smooth Operator」に代表される初期シャーデー作品の魅力が、ジャズやラテンを色濃く反映したロックンロール以前のアメリカのポピュラー音楽に多くを負っていることを改めて確認させる。そして、その時代に黒人として初めて大衆的セックス・シンボルになったドロシー・ダンドリッジが、全く同名の「Smooth Operator」という曲を歌っていた(しかも、ラテン・ジャズ調で)、という偶然に、私は興奮を覚えるのである。
 
 『SMOOTH OPERATOR』収録の全16曲の内、「Somebody」「Stay With It」の2曲のみがシングルとしてVerveから既発だった。ヒット性も高い「Smooth Operator」が'99年までお蔵入りしていた事実が本当に信じられない。

 歌手としても優れた才能を持ちながら、結局、そのポテンシャルを十分に発揮することなく死んでしまったダンドリッジ。同路線でアルバムが一枚でも制作されていれば、彼女の現在の評価や知名度もまた違っていたかもしれない(彼女のキャラを考えると、ラテンもののアルバム企画が生まれなかったのが不思議)。あるいは、「Smooth Operator」がまともなプロモーションの下に発売されていれば、彼女のその後の人生すら変わっていたのではないか。この未発表音源集を聴いていると、そんな不毛なことをいつまでも考えてしまう。


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 ドロシー・ダンドリッジには、シャーデー・アデュ同様、白人の血が混ざっているらしい(アデュはハーフだが、ダンドリッジは父方の祖母に白人説がある。つまり、クオーター)。
 女優としても名を残す母親ルビー・ダンドリッジの影響で、彼女は姉と共に幼少時から歌や踊りを覚え、'30年代になると、友人を加えてダンドリッジ・シスターズという3人組グループを結成。巡業や映画への端役出演などを経て、'30年代末にニューヨークのコットン・クラブへの出演をものにし、幸先の良いスタートを切る。

 しかし、彼女の人生は公私においても決して順風満帆なものではなかった。
 女優になる野心を抱いて'40年代にソロに転向した彼女だが、与えられる役はステレオタイプな黒人端役ばかりで、なかなかまともなチャンスには恵まれない。また、コットン・クラブ時代に知り合った当時の売れっ子黒人ダンス・コンビ、ニコラス兄弟の弟ハロルドと'42年に結婚するも、彼との間に生まれた一人娘が不幸にも重度の脳障害児で、ここで彼女の人生は暗礁に乗り上げてしまう(ハロルドは妻子のもとを去り、2人は'51年に正式離婚)。

 妻としても母親としても挫折した彼女には、女優として成功する以外に道は残されていなかった。
 しかし、ハリウッド映画における黒人といえば、使用人や芸人役くらいしかなかった当時。そこで、チャンスを窺うため、急がば回れ的に'40年代末から再び彼女が力を入れ始めたのが歌手業である。これが当たった。一流ホテルや高級サパークラブで行われた彼女の公演は、各地メディアからも絶賛され、ツアーはロンドン、トロント、南米など国外にまで及んだ。

DD Life cover 歌手としてのテレビ出演や、まともな女優の仕事も入り始めた'50年代前半、遂に決定的な大チャンスが彼女に巡ってくる。オットー・プレミンジャーが監督するオール黒人キャストによるビゼー作『カルメン』映画化の話である。彼女は猛烈な売り込みでプレミンジャーを口説き落とし、ハリー・ベラフォンテ演じる堅実な青年を狂わせる妖艶なファム・ファタル、主役カルメンの座を手に入れる。'54年11月に公開された映画は大きな話題を呼び、彼女は黒人女性として初めてアメリカの代表的グラフ雑誌、Life('54年11月1日号)の表紙も飾った。

 アメリカで彼女以前にスクリーンに登場したブラック・ビューティとしては、『ハレルヤ』(1929)のニーナ・メイ・マッキニー、同じく歌手のリナ・ホーンという偉大なパイオニアが存在するが、純粋に女優として人種の垣根を越える大成功を収めたのはダンドリッジが初めてと言っていい。そして、'55年2月、黒人初のアカデミー主演賞へのノミネート。受賞は逃したものの、それでも彼女は十分に満足していたという。もちろん、次こそは、という希望あってのことだが、結局、これが彼女の女優人生における最大の頂点となってしまう。

 アカデミー主演賞ノミネート女優とはいえ、黒人に主演級の役がそう簡単に回ってくるような時代ではない。『カルメン』の成功から間もなく、彼女のもとに『王様と私』(1956/ユル・ブリンナー、デボラ・カー主演の大ヒット作)のタプティム(王に貢がれた奴隷)役の話が来る。最初は承諾した彼女だったが、当時愛人関係にあったプレミンジャーの意見に流され、助演級の大役にもかかわらず、“奴隷の役はやりたくない”とこれを最終的に断ってしまう。

 ここから彼女の人生は下降していくばかりだ。以後のダンドリッジの主な出演作には、『日のあたる島』(1957)、プレミンジャーとの再会作『ポギーとベス』(1959)などがあるが、いずれも『カルメン』の成功には遠く及ばない。また、彼女は、『ハレルヤ』を撮ったキング・ヴィダー監督『ソロモンとシバの女王』(1959)、ジョセフ・L・マンキウィッツ監督『クレオパトラ』(1963)で、それぞれ主役のシバ、クレオパトラ役に一時考慮されたが、これらが実現することはなかった(クレオパトラ役にダンドリッジを推していたのは、監督をクビになったルーベン・マムーリアン。彼は『ポギーとベス』でも監督を降ろされている)。他に、ビリー・ホリデイの自伝『奇妙な果実(Lady Sings The Blues)』の映画化(ダイアナ・ロス主演で'72年に実現)で主演を務める話も何度かあったようだが、これも話が進まなかった。
 結局、多くの人々にとって女優ダンドリッジは、『ハレルヤ』のマッキニー同様、ほとんど『カルメン』という一本の映画によって記憶されていると言っても過言ではないのだ。

 '59年、ダンドリッジはとある白人レストラン経営者と出会い、二度目の結婚をしている。これが金銭目当ての疫病神のような男で、彼女の財産を事業に根こそぎ投資してことごとく失敗した上、暴力まで振るうようになった。離婚後、彼女のもとには12万ドルにも及ぶ多額の借金だけが残り、'63年には遂に自己破産。次第に抗うつ剤やアルコールに依存するようになり、彼女は身も心もすっかりボロボロになっていった。
 かつてのマネージャーの計らいで、再び歌手活動でキャリアを立て直すはずだったが、そんな矢先の'65年9月、ハリウッドの自宅アパートでダンドリッジは死体となって発見された。死因は抗うつ剤の過剰摂取。享年42歳。事故死か自殺かは謎のままである。マリリン・モンローの死から3年後のことだった。

 以上がドロシー・ダンドリッジの生涯のごく簡単な概要である。“黒人初のアカデミー主演賞ノミネート”という輝かしい栄誉を手にしながらも、決して幸せな生涯だったとは言い難い。運命に翻弄され続けて力尽きた彼女の実人生は、『カルメン』どころか、むしろまるで『居酒屋』のようだ。

DD on the phone

 ダンドリッジの人生における最大の不幸のひとつは、まず、先述した障害児の出産である。これによって背負った罪悪感を彼女は最後まで克服することができなかったようだ。ハロルド・ニコラスとの離婚後、仕事のために知人に世話を任せてはいたが、彼女は常に娘を愛し、女手ひとつで養っていた。しかし、晩年の破産によって養育費が払えなくなり、彼女は最愛の娘の親権も手放すことになる。

 もうひとつ彼女の個人的不幸として特筆されるのは、男性恐怖症である。母親ルビーにはレズビアンの同居人がいて、この“叔母”の過度のしつけが男性に対する強迫観念を彼女に植え付けたらしい。成功するために、彼女は舞台でも銀幕でもセクシーで情熱的な女のイメージを演じたが、実際のダンドリッジはそれとは全く正反対の、非常に古風な結婚観を持つ、理知的で落ち着いた女性だった。自分が男たちからジロジロ見られるのが、彼女は嫌で仕方がなかったという。
 ダンドリッジの生涯でひどく印象的なのは、こうしたパブリック・イメージとプライヴェートのあまりのギャップである。

 また、黒人差別がまだ酷かった当時、歌手/女優としてトップ・スターの座についた後も、彼女は行く先々で様々な差別待遇を受けている。公演先ホテルで最高級の部屋に泊まりながら、一般客用のトイレ、エレベーター、プール等の使用が禁止されることも珍しくなかった。黒人として成功することで、白人からは“黒人のくせに”と叩かれ、黒人からも“白人に媚びを売りやがって”とやはり叩かれる。一時交際していた俳優ピーター・ローフォードや、監督プレミンジャーも、彼女が黒人であることで決して結婚には踏み切ろうとしなかった。

 そして、何より悲劇的なのは、黒人差別によって彼女の女優としてのキャリアが、志し半ばの発展途上にして破綻してしまったことだろう。『カルメン』で突発的に大スターになった彼女だが、その後、この新たなタイプの黒人女優に相応しい企画は当時のハリウッドからは生まれようがなかった。たった一度のブレイクスルーで、彼らアフリカ系アメリカ人に対する長い抑圧の歴史が覆るわけもなく、行き場のない彼女は逆風の中で徐々に疲弊していくことになる。そして、頂点から10年後の孤独な死。初の黒人女性ハリウッド・スター、華やかなセックス・シンボルの実人生は、あまりにも過酷なものだった。


Introducing DD
アカデミー 栄光と悲劇(1999/米)
INTRODUCING DOROTHY DANDRIDGE
監督:マーサ・クーリッジ
原作:アール・ミルズ
音楽:エルマー・バーンスタイン
出演:ハリー・ベリー、ブレント・スピナー、クラウス・マリア・ブランダウアー

 ドロシー・ダンドリッジの生涯は、ハリー・ベリー主演で'99年に『アカデミー 栄光と悲劇』としてテレビ映画化されている(未発表音源集もこれに合わせた発売だったのだろう)。ダンドリッジ・シスターズ時代から'65年の死まで、主要出演作の撮影現場やナイトクラブ公演の再現なども交え、人種の壁を打ち破った彼女の女優/歌手人生が私生活を含めてかなり丁寧に描かれている。
 ハリー・ベリーはダンドリッジよりもシャープな容姿で、凛然とした雰囲気があるが(むしろリナ・ホーン向きだろう)、入魂の演技でそれなりに雰囲気は出ていると思う。最新モードで生まれ変わったダンドリッジといった感じで、当時の彼女のインパクトを疑似体験させてくれるようだ。忠実な再現よりも、ダンドリッジの人物像にスポットを当て、物語性に力が入れられているので、単純に娯楽映画としても楽しめる。パフォーマンス場面には再現ゆえの安っぽさもあるが、苦悩に満ちた彼女の人生ドラマには引き込まれずにいられない。ダンドリッジに興味がある向きは必見だ。
 この映画では、彼女のキャリアを長く陰で支えたマネージャーのアール・ミルズが非常に重要な人物として登場してくる。献身的な彼の存在は、彼女の人生における最大の救いであるかのように思われるのだが、それもそのはず、この映画はそのミルズ本人が書いたダンドリッジの伝記本を原作としている。要するに、これは基本的にミルズ個人のダンドリッジ像であって、この映画のすべてをそのまま鵜呑みにするのは危険だ。しかし、それを差し引いても、ダンドリッジの功績を再び広く世に知らしめたこの作品の価値はあまりにも高い。

 ダンドリッジの生涯を更に詳しく知るには、伝記を読むのが一番だ。彼女に関する伝記本は主に3冊存在している。ダンドリッジ本人が生前に録音した口述をアール・コンラッドがまとめた自伝『Everything And Nothing: The Dorothy Dandridge Tragedy』(1970)。マネージャーのアール・ミルズによる前述の回想録『Dorothy Dandridge: A Portrait In Black』(1970)。そして、黒人映画史研究家のドナルド・ボーグルが記した評伝『Dorothy Dandridge: A Biography』(1997)。
 ボーグルの評伝は、関係者への独自の取材なども含め、彼女に関する最新の研究を集大成した大著で、最も客観的かつ詳細に彼女の生涯の全貌が知れる定本として評価が高い(私も参照した)。ダンドリッジの死後に出版された自伝は、もともと彼女が金に困って引き受けた仕事で、本人の精神状態も悪い上、執筆者による歪曲も含まれた虚実綯い交ぜのかなり酷い代物らしいが、それでも貴重な文献には違いない。ミルズの回想録にしても、長く彼女の間近にいた人物の証言なので(彼女の死体の第一発見者も彼だった)、一読の価値はあるだろう。
 もちろん、誰が書こうと、いくら客観性を心がけようと、情報の取捨選択などにおいて必ず著者の主観は入り込む。これらを併読することでようやく立体的なダンドリッジ像が浮かび上がってくるわけだが、彼女に関する書籍は残念ながら全く邦訳されていない。この状況は何とかならないものだろうか。


 さて、ここで冒頭の問いに戻ることにしよう。
 
 黒人として初めてアカデミー最優秀主演賞にノミネートされた女優はダンドリッジだった。
 では、最優秀主演賞を実際に受賞した初の黒人女優は誰か?
 
 それが、'99年の伝記映画でダンドリッジ役を演じたハリー・ベリーだった。時は第74回アカデミー賞('02年3月24日)、主演作『チョコレート』(2001)での受賞である。

 自分の名前が呼ばれ、満場のスタンディング・オベーションの中を号泣しながら壇上に立ったベリーは、嗚咽でしばらく喋ることができなかった。黒人として遂に初めて主演女優賞を手にした歴史的女優は、その受賞スピーチで真っ先にこう言った。

「……この瞬間は私なんかよりずっと大きなものです。この瞬間は、ドロシー・ダンドリッジ、リナ・ホーン、ダイアン・キャロルのためにあります。私の支えでもあるジェイダ・ピンケット、アンジェラ・バセット、ヴィヴィカ・フォックスのため、そして、すべての知られていない無名の黒人女性たちのためにあります。いま彼女たちにはチャンスがある。今夜、ドアは開かれたのだから」

 アカデミー賞の長い長い歴史の中で、初めて黒人の女王が誕生した瞬間だった。ドロシー・ダンドリッジ('54年)、ダイアナ・ロス('72年)、シシリー・タイソン('72年)、ダイアン・キャロル('74年)、ウーピー・ゴールドバーグ('85年)、アンジェラ・バセット('93年)……彼女たちはいずれも主演女優賞にノミネートされながら、受賞を果たすことができなかった。74年間。ダンドリッジの初ノミネートから数えても実に47年という歳月。なんということだろうか。

 同年のアカデミー賞では、デンゼル・ワシントンが『トレーニング・デイ』で主演男優賞を獲得し、黒人が主演部門を揃って受賞するという大事件が起きた。黒人としての主演男優賞獲得は、'63年度のシドニー・ポワチエの初受賞以来、2人目、38年ぶりの快挙である(ちなみに、その年は『アリ』でウィル・スミスもノミネートされていた)。更には、初受賞者のポワチエにも名誉賞が贈られるという大盤振舞。第74回アカデミー賞はまさに歴史的なものとなった。以降、'04年度にジェイミー・フォックスが『レイ』で、'06年度にはフォレスト・ウィテカーが『ラストキング・オブ・スコットランド』で主演賞を獲得し、歴史は確実に更新され続けている(尚、'06年度は『ドリームガールズ』のジェニファー・ハドソンが、黒人として16年ぶり、史上3人目の助演女優賞に輝いてもいる)。

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 遠い昔、彼らの歴史を切り開いたドロシー・ダンドリッジ。
 彼女の生涯を知るにつけ、恵まれない時代環境の中で十分に開花することなく終わってしまった薄幸の女優/歌手、という印象は強まる。逆に、そうした時代だったからこそ、彼女の残した業績が輝きを増すとも言える。とにかく、彼女の美しさは誰にも否定することができなかった。
 ジャネット・ジャクソンは「Twenty Foreplay」(1995)のPVで彼女にオマージュを捧げ、ホイットニー・ヒューストンは前述のボーグルによる伝記の映画化権を速攻で買った。2人とも憧れのダンドリッジになりたかったのである。
 早過ぎたブラック・ビューティの輝きが、この世から忘れ去られることはない。


"Dorothy Dandridge was the right woman, in the right place, at the wrong time"
──ハリー・ベラフォンテ



Dorothy Dandridge (part 2)
Dorothy Dandridge (part 3)

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