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ジャームッシュの純血主義『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』

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 ジム・ジャームッシュ監督最新作『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』を上映終了間際のTOHOシネマズシャンテで観た(上映期間:'13年12月20日〜'14年1月30日)

 当ブログの名称で明らかだと思うが、私はシャーデーのファンであると同時に、ジャームッシュ映画のかなり熱心なファンでもある。シャーデーとジャームッシュの間には何の接点もないが、いずれも'80年代の同時期に登場し、“オシャレもの”としてもてはやされたりしながら、メインストリームとは一定の距離を置いた独自の作風でファンから絶大な信頼を寄せられ、現在までしぶとく生き残っているという共通点がある。日本的な“Less is more”の美学や、本人の容姿が昔とさっぱり変わらない点も似ていると言えば似ている。シャーデーとジャームッシュを同時に愛する人間は恐らく私以外にもいるだろう。

 『コーヒー&シガレッツ』(2003)、『ブロークン・フラワーズ』(2005)、『リミッツ・オブ・コントロール』(2009)と、近年は割とこぢんまりした定型詩的な作品(劇中で規則性のあるシークエンスが何度も繰り返される)が続いていたジャームッシュだが、今回は久々に散文詩スタイルで来た。物語は螺旋状ではなく、直線的に進行する。吸血鬼映画を換骨奪胎した寓話的な物語構造はキャッチーかつ示唆に富んでいて、かつての詩的西部劇『デッドマン』(1995)以来の厚みを感じさせたりもする。いつも以上に本気度が高い、色々な意味でジャームッシュらしさが全開の作品なのだが……。DVDで再見してからとも思ったが、億劫にならないうちに感想を書き残すことにした。先行の画像資料記事“Only Lovers Left Alive: The Vampire Chronicles”とあわせてご覧頂きたい。


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オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ(2013)
ONLY LOVERS LEFT ALIVE
監督/脚本:ジム・ジャームッシュ
製作:ジェレミー・トーマス、レインハード・ブランディング
撮影:ヨリック・ルソー
編集:アフォンソ・ゴンサルヴェス
音楽:ジョセフ・ヴァン・ヴィセム
出演:トム・ヒドルストン、ティルダ・スウィントン、ミア・ワシコウスカ、ジョン・ハート、アントン・イェルチン


 主人公は吸血鬼カップルのアダム(トム・ヒドルストン)とイヴ(ティルダ・スウィントン)。人間の血を吸って生息し、何世紀も愛し合ってきた不老不死の2人。現在では人間を殺傷せず、闇ルートで輸血用の血液を入手してどうにか生きながらえている。世知辛い現代での吸血鬼の日常が、オフビートと言われるジャームッシュ特有のとぼけたユーモアを交えながら、淡々と詩情豊かに描かれていく。

 この映画には、音楽、映画、文学、科学まで含む過去の芸術・学問への言及がたくさん散りばめられている。デトロイトの自室でひとり寝そべり、ワンダ・ジャクソン「Funnel Of Love」(1961)をドーナツ盤で聴くアダム。そこに運び込まれてくるスプロ、ハグストロム、シルバートーン、グレッチといったヴィンテージ・ギター。それらに関する蘊蓄、エディ・コクランに関する会話……。映画は冒頭からいきなりジャームッシュの趣味自慢のような展開である。古い楽器、機材、レコード、本、ポスター、家具、骨董品等で溢れたアダムの部屋は、さながらジャームッシュの頭の中にある架空のマイルームといった趣だ。これは映画のふりをしたジャームッシュの“お宅訪問”なのか。

 映画館の壁に飾られたニコラス・レイ監督『バレン』のポスター(『パーマネント・バケーション』)、競走馬の名前の中に紛れ込んだ小津安二郎の作品名(『ストレンジャー・ザン・パラダイス』)、保安官コンビにつけられた“リー”&“マーヴィン”なるふざけた役名(『デッドマン』)──ジャームッシュの映画には、彼自身が敬愛する過去の映画人や古典に対するこの手の言及が昔からよくあった。あるいは、劇中で合言葉のように流れるスクリーミン・ジェイ・ホーキンス「I Put A Spell On You」、エルヴィス・プレスリー「Blue Moon」といった古典R&Bナンバー、登場人物が口にするウォルト・ホイットマンやウィリアム・ブレイクの詩、主人公が愛読する『葉隠』……。ジャームッシュの映画は、いつも彼の好きなアンティークのような“小物”で溢れている。

 ジャームッシュが提示するそうした“小物”=小ネタの数々は、基本的には分かる人だけが分かってニヤリとする類のもので、これまで劇中では気の利いた小道具や隠し味、あるいは、映画に奥行きを与える出汁のような役割を果たしていた。しかし、今回はちょっと様子が違う。過去の様々な芸術へのオマージュを込めた数多の言及、それ自体が物語を駆動させている。簡単に言うと、この映画はほとんど小ネタだけで成り立っているのである。

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孤高のカリスマ音楽家、アダム(トム・ヒドルストン)

 主人公のアダムとイヴは芸術オタクである。アダムはデトロイトで隠遁し、公衆の前に姿を見せない謎のカリスマ・ロック・アーティストとして活動する。創作の傍ら、彼は入手したヴィンテージ・ギターを“ウィリアム・ローズ”と名付けたり、ニコロ・パガニーニの奇想曲第5番をヴァイオリンで気まぐれに奏でたり、“ファウスト”、“ストレンジラヴ”、“カリガリ”といった変名を使って病院に血液を調達しに行ったりする。彼の住まいの壁には(私の覚えている限りでは)バスター・キートン、ビリー・ホリデイ、フランツ・カフカ、オスカー・ワイルドといった、劇場で一度観ただけでは到底把握しきれない膨大な数のポートレート写真が飾られている。

 一方、文学少女タイプのイヴは、モロッコのタンジールで無数の古書に囲まれて過ごす。デトロイトで再会した2人は、深夜の車デートでモータウンとスタックスの話をしながらジャック・ホワイト(※)の生家を訪れたり、シェリーバイロンの思い出話をしたり、ニコラ・テスラの不遇を嘆いたり、あるいは、デニス・ラサール「Trapped By A Thing Called Love」に合わせて(『ダウン・バイ・ロー』のロベルト&ニコレッタのように)ロマンチックに踊ったりする。また、タンジールとデトロイトを行き来する2人は、航空券の予約をする際、“フィボナッチ”、“スティーヴン・ディーダラス”、“デイジー・ブキャナン”といった変名を使う。

 これらはほんの一部に過ぎない。映画は終始こんな調子で、ジャームッシュが個人的に愛好する音楽家、作家、学者などを礼賛していく。暇な好事家や知識人はともかく、彼と趣味を共有しない一般の観客にとっては、全くもって“知るかそんなの”という世界である。仄めかしや思わせぶりな引用に満ちたこの映画が、それでもゴダールの小難しい映画ほど眠気を誘わないのは、もっぱら吸血鬼という2人の珍奇なキャラ設定による。血を飲んで恍惚とする場面のドラッギーな視覚演出や、吸血鬼であることで生じる主人公たちの苦労やハプニングの数々はユーモラスで単純に面白く、どのような観客が鑑賞してもそれなりに退屈せずに楽しめるよう配慮がなされている。この映画は、少なくともジャームッシュの単なる趣味自慢では終わっていないし、彼の近年の作品と比べれば娯楽性もかなり高いと言える。

(※)ジャック・ホワイトは、映画冒頭に旧曲が使用されているダミ声のロカビリー女王、ワンダ・ジャクソンのアルバム『THE PARTY AIN'T OVER』(2011)をプロデュースしている(エイミー・ワインハウスのカヴァー含む)。ジョセフ・ヴァン・ヴィセム&ジム・ジャームッシュのアルバムはちょっと……という人にはこちらがお薦め。


なぜ吸血鬼なのか

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『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』(1994)──苦悩する吸血鬼を演じたブラピ

 では、吸血鬼という設定は単なるウケ狙いなのか。観客を自分の趣味自慢に付き合わせるためのジャームッシュ流“おもてなし”に過ぎないのか。そもそも、一体なぜ吸血鬼なのか。狼男ではいけないのか。

 フランケンシュタインの怪物、ミイラ男、透明人間、狼男、半漁人、蠅男、ワニ人間、蛇女、ゾンビ……映画史における歴代の様々なモンスターの中にあって、吸血鬼(ヴァンパイア)は昔から貴族的・選民的なキャラを特徴とし、そのクールでエレガントな生態で他を圧倒してきた。醜くない唯一のモンスター、あるいは、“美しい”と形容できる唯一のモンスターと言ってもいいだろう。人間さえも羨望する、押しも押されもしないモンスター界のカリスマである。

 吸血鬼には、年を取らない、心臓に杭を打ち込むと死ぬ、日光を浴びると朽ちる、血を吸われた人間──あるいは、その上で更に吸血鬼の血を口にした人間──は同じく吸血鬼化する……といったお約束がある(他に、ニンニクが嫌い、十字架が嫌い、土の入った棺桶の中で寝たがる、といった習性もある)。このお約束は、頭部を破壊しない限り死なない、一部でも身体を噛まれた人間は同類化する、というゾンビのそれとよく似ている。他のグロテスクなモンスターたちに比べ、見た目が人間とあまり変わらない点、特定の危害を与えない限り不老不死である──正確に言うと、最初から(人間としては)死んでいる──点も共通する。面倒くさい約束事が少なく、誰でも簡単になることができるゾンビは、いわば吸血鬼の簡易版、一般普及版のようなものである。但し、その代わりに、ゾンビは知能レベルが非常に低い。物を考えずに動物的本能だけで行動する彼らは、醜い。ゾンビは、私欲や物欲で凝り固まった無知蒙昧な一般大衆のカリカチュアである。これに対して、高い知性を持ち、歴史にも造詣が深い吸血鬼は、美しい。何百年にもわたり、彼らは人間の世界を観察してきた。闇に生きる賢者である吸血鬼は、飽くまで選民的な特権階級モンスター、ごく一部の選ばれた人間だけがなれる死の貴族、いわば死人の中の死人なのである。

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『ハンガー』(1983)──吸血鬼カップルを演じたC・ドヌーヴ&D・ボウイ

 『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』では、この“吸血鬼”と“ゾンビ”という2つのモンスターが対比されている。この映画で“吸血鬼”は、肉体的に死んでも綿々と生き続ける過去の偉大な芸術家たちの美しい魂、あるいは、彼らの不滅の創作そのものを表すメタファーになっている。主人公の吸血鬼アダムは、そうした高貴な創作に理解を示さない愚鈍な一般大衆=人間たちを“ゾンビ”と呼んで卑下する。音楽家であるアダムは、素性を隠しながら匿名で自分の作品を世に発表している。彼は純粋に己の芸術的衝動から創作活動を行っている。富や名声のために作品を作っているお前らゾンビ(俗物)たちと俺は違うんだよ、というわけだ。

 ボヘミアン的な生活を送る芸術家肌の吸血鬼たち──特にアダム──には、商業主義のハリウッドメジャーに背を向け、メインストリームから離れた場所で自分の撮りたい映画だけを撮るアウトサイダー=ジム・ジャームッシュ自身の姿が明らかに投影されている。つまり、見方によっては非常に高慢で嫌味なのだが、それでもこの映画がそれほど不快感を与えないのは、吸血鬼というメタファーによって、過去の(とりわけ、あまり広く評価されていない、日の当たらない)優れた芸術に対するジャームッシュ自身の想いが、洒脱なユーモアを交えながら、飽くまで詩的に美しく描かれているからだろう。この映画から強く伝わってくるのは、俺のように高貴な芸術家にとって今の世の中は住みづらいぜ、といった自尊や怨恨ではなく、むしろ、アウトサイドで生きる芸術家たちに対するジャームッシュの純粋な愛情や共感、あるいは、静かに崩壊へと突き進む文明社会──いつものジャームッシュ的なシケたムードを通り越し、終末感すら漂うデトロイトのお先真っ暗な闇夜(ゴーストタウンならぬ、ゾンビタウン状態)に象徴される──への憂いのようなものである。ジャームッシュはジャンル映画を換骨奪胎して独自の映画を撮るのが昔から巧かった。ここでもその手腕は冴えているし、吸血鬼の寓話によって自分のヴィジョンを美化・正当化する彼の試みは、ある程度は成功していると思う。

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Man smart, Woman smarter──チェスでアダムをまんまと追い詰めるイヴ

 全裸のヒドルストン&スウィントンを、森の中で身を寄せ合って眠る二頭の山羊のように捉えた神秘的なショット(ジョニー・デップが子鹿の死体に寄り添う『デッドマン』の一場面を思い出させる)、『華麗なる賭け』(1968)を引用したチェスゲーム場面(チェス盤の垂直俯瞰、相手の集中力を乱して女が男を追い詰める展開)などを見てハッとしたり膝を打ったりしながらも、“吸血鬼=高貴・優等人種”、“人間(ゾンビ)=下賤・劣等人種”という単純な二項対立の構図には、やはり最後まで違和感が拭えない。インディ/オルタナティヴ万歳、メジャー/メインストリームはゴミだ、と言っているようにも聞こえる。吸血鬼・ゾンビという映画的記号に拘るあまり、ジャームッシュは話をあまりにも単純化しすぎたのではないか。一体何の根拠があってそこまで明確な線引きができるのだろう。

 この映画でジャームッシュが言っていることは、ナチスのアーリア人純血主義とほとんど変わらない。ナチの残党が21世紀まで生き延び、潜伏先のデトロイトの屋敷で第三帝国の栄華に想いを馳せながら、“ユダヤ人が世界をダメにする。奴らの汚れた血が世界を滅ぼすのだ”とボヤいている映画のようにも見える。ヒトラーは、言ってみれば自分の趣味だけで何百万人ものユダヤ人を殺害した男である。また、ナチスという組織にはある種の美しさがあり、それが当時のドイツの人々を過った方向へ導くことにもなった。

 『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』で吸血鬼たちが人間(ゾンビ)を安易に殺害しないのは、倫理観からではなく、単純に社会的制裁を避けるためである。死体の処理さえ面倒でなければ、彼らは平気で人間を殺すだろう。そしてその動機は、“吸血鬼”がジャームッシュの愛好する芸術諸々のメタファーであることを鑑みれば、生存本能というより、むしろ個人の悦楽や趣味に近い。俺の貴い趣味(血)を守るため、悪いが無粋なゾンビどもには死んでもらうぜ……。そのような蛮行が、とても詩的に美しく描かれている。冒頭に流れるワンダ・ジャクソンをワーグナーに変えるだけで、この吸血鬼映画は簡単にナチスのプロパガンダ映画にもなるだろう。この映画は腐臭がする。『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』を支持する人々は、ナチスを支持したドイツ国民と大差ない。


邪魔者は誰だ

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血液アイスキャンディーを頬ばるイヴ(ティルダ・スウィントン)

 主要キャラクターに注目しながら更に細かく検証を進めていこう。
 
 ロック・アーティストになった吸血鬼はアダムが最初ではなく、過去にも存在する。アン・ライス著の吸血鬼小説シリーズ“ヴァンパイア・クロニクルズ”(1976〜2003)に登場するレスタトがそれだ。シリーズ第一弾『夜明けのヴァンパイア』(1976)の映画化であるニール・ジョーダン監督『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』(1994)は、トム・クルーズ演じるレスタト(往年のヘルムート・バーガーに演じさせたい)がカーラジオで「Sympathy For The Devil」を聴く場面で終わるが、その後、彼は現代社会でカリスマ的なロック・スターになる。レスタトの後日談を描いた続編小説『ヴァンパイア・レスタト』(1985)、および、『呪われし者の女王』(1988)は、後に『クイーン・オブ・ザ・ヴァンパイア』(2002)として映画化され、そこではトム・クルーズに代わってスチュアート・タウンゼンドが吸血ロッカー(トレント・レズナー風)を演じた。トム・ヒドルストン演じるアダムは、ペシミスティックで自己顕示欲のないレスタト、といった感じである。

 アダム&イヴのキャラクターは、トニー・スコット監督『ハンガー』(1983)でカトリーヌ・ドヌーヴ&デヴィッド・ボウイが演じた吸血鬼カップルのイメージをトレースし、それを更にジャームッシュの嗜好でボヘミアン風にアレンジして出来上がったものと思われる。アダム&イヴが劇中でシューベルトの話をする場面があるが、『ハンガー』ではドヌーヴ&ボウイがピアノとチェロで実際にシューベルトを演奏している。サングラスをかけてナイトクラビングという行動パターンも一緒だ。

 B級ゴシック・ロッカー風情のナルシスティックなトム・ヒドルストン──アングラ版トレント・レズナーといった趣き──には個人的に何の魅力も感じなかったが、イヴ役のティルダ・スウィントンには目を見張るものがある。ドヌーヴとボウイが合体したようにしか見えない彼女の容姿は驚異的に妖しく、どう見ても自分と同じ人間とは思えない。スウィントンの実年齢は50過ぎなのだが('60年生まれ。シャーデーの1つ下)、場面によっては10歳くらいの少女のように見えるし、80歳くらいの老婆のようにも見える。紛れもなく怪物である。アダム役には当初マイケル・ファスベンダーが予定されていたというが、イヴの役柄はジャームッシュが最初からスウィントンに当て書きしたものだった。何百年も生き続ける不老不死の吸血鬼を、彼女は演技を超えた演技で完璧に演じている。

 顔を半分隠したスウィントンが迷路のように入り組んだタンジールの夜の階段道をゆっくり優雅に歩いていく画は、ただそれだけで圧倒的に美しい。映画を牽引しているのは完全に彼女である。しかしながら、観客にジャームッシュの純血主義を支持させ、次回も彼にゾンビ差別主義映画を撮る権力と資金を与えかねないスウィントンの美しさは、同時に、非常に危険でもある。お気に入りのアンティークで埋め尽くされた部屋でひとり満悦し、更にD・ボウイもどきのような女優を使って“クールだろ?”と言わんばかりに自分の趣味をさり気なく観客に押しつけようとするジャームッシュ。間違いなく映画の要でありながら、ティルダ・スウィントンの存在はこの映画の一番の癌であるようにも思える。もしかすると、彼女がいるからダメなのではないか……? 映画を根幹から揺るがすようなその奇妙な印象は、この作品をジャームッシュのかつての傑作『ストレンジャー・ザン・パラダイス』(1984)と比較すると更に強まる。

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『オンリー・ラヴァーズ〜』の主要キャラ4名──(左から)イヴ、アダム、エヴァ、イアン

 アダム(トム・ヒドルストン)、イヴ(ティルダ・スウィントン)、エヴァ(ミア・ワシコウスカ)、イアン(アントン・イェルチン)。『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』のこれら主要キャラクター4名の中で、1人だけ仲間外れがいる。誰か?

 イアン? アダム、イヴ、エヴァの3人は吸血鬼で、イアンだけ人間だから?
 それもひとつの正解だろう。しかし、私の答えは違う。

 ジャームッシュのファンはすぐに気付いたと思うが、アダム、エヴァ、イアンという3人のキャラ、および、各人の関係は、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』の3人、ウィリー(ジョン・ルーリー)、エヴァ(エスター・バリント)、エディ(リチャード・エドソン)のそれと非常に似ている。焼き直しと言ってもいいくらいだ。気難しがり屋の主人公アダム、そして、いつも彼の顔色を窺っている気立てのいい相棒イアン。これはウィリーとその相棒エディの関係そのままである。遠方から招かれざる客としてやってくる気まま娘のエヴァ(Eva/ウィリーの従妹)は、同じように突然現れてアダムを苛つかせるエヴァ(Ava/アダムの義妹)として再生される。ウィリーは、アダムが吸血鬼の素性を隠しているのと同様、自分がハンガリー移民であることを隠してニューヨークで暮らしている。そこに同じ血統を持つ第三者のエヴァがお荷物として現れ、彼の平穏な日常を掻き回す。これと全く同じ展開が『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』の中盤でも見られる。そして、映画の中で最も面白いのが、ミア・ワシコウスカ演じるエヴァが登場するその中盤部分なのである。

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気ままにドラムを叩いてアダムを苛つかせるエヴァ(ミア・ワシコウスカ)

 同じ吸血鬼でありながら、貴族的で品の良いアダム&イヴと違い、エヴァは自由奔放で小生意気な現代風の女の子である。アダムの部屋に置いてあるドラムセットを彼女が嬉々として叩く場面は、子供が箸で茶碗を叩く姿を思わせ、とても微笑ましい(もちろんアダムに叱られる)。エヴァには気取ったところがまるでない。アダムが、自分の使いっ走り役を務める人間のイアンを指して“ゾンビにしてはまともなやつだ”というような意味のことを言う場面があるが(正確な台詞は失念)、私に言わせれば、エヴァは“吸血鬼にしてはまともなやつ”ということになる。彼女はこの映画の中で観客が最も親しみを覚えやすい、とても魅力的なキャラクターだ。屈託のない無邪気なエヴァのキャラ──自制が利かず、つい人間の血を吸ってしまう──は、『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』でキルスティン・ダンストが演じた吸血鬼少女のイメージが下敷きにされているような気がする(ついでに言うと、アダムがイアンの手から血液入りスキットルを高速で引ったくる場面は、同じく『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』で、吸血鬼ブラッド・ピットが高速移動して人間のクリスチャン・スレーターを驚かせる場面を彷彿させる)

 ニューヨークで一端に生きているつもりだったウィリー。『ストレンジャー・ザン・パラダイス』で、当初、ハンガリーから出てきた従妹のエヴァ──音楽も服の趣味もまるで合わない──を疎ましく思っていた彼は、次第に彼女に対して心を開いていく。排他的で閉ざされていた彼の世界に、ちょっとした、しかし、確実な変化が訪れる。ところが、『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』で、アダムはエヴァを邪魔者として途中であっさり追い出してしまう。イヴと協力して。エヴァの退場後は、クリストファー・マーロウとシェイクスピアが云々といった小ネタが再び続くことになる(タンジールの街角でヤスミン・ハムダンの歌を聴き、“彼女は本物だ”などとしたり顔で言い放つアダムには、“結構なご趣味ですこと!”と皮肉のひとつでも言ってやりたくなる)。結局、アダムは最後まで自分の世界から一歩も外に出ることはない。劇中で生き残るのは、文字通り“Lovers”、すなわち、自分の血と趣味に対する偏愛だけである。

 主要キャラ4名の中で仲間外れが誰であるかは言うまでもないだろう。私には、主役である彼女こそ、この映画の本当の邪魔者であるように思える。

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『ストレンジャー・ザン・パラダイス』──沈黙するウィリーとエディ

 『ストレンジャー・ザン・パラダイス』で素晴らしいのは、例えば、エヴァが出ていった後の部屋で、ウィリーがエディと一緒に缶ビールを飲む場面である。ウィリーはヘコんでいる。エヴァがいなくなったことに言いようのない寂しさを覚えている。しかし、彼はひとことも喋らない。喋れない。ひたすら続く沈黙。そこには、カッコつけでもオシャレでも何でもない、不器用な青年ジャームッシュの非常に切実な詩があった。それは誰の心にも響く普遍的な詩である。私は高校生の時にこの映画を観て、心の底から感動した。

 それから30年。好きなように映画を撮り続けて還暦を迎えたジャームッシュは、ウィリー、エヴァ、エディのあの奇妙な三角関係を変奏しながら、『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』で傍若無人なまでに自分の趣味を愛でている。まるで、飢えて機嫌の悪い吸血鬼のように。あるいは、“永遠の休暇”を生きすぎた若者のように。そこにいまひとつ乗り切れないのは、結局、私が年を取る平凡な人間だからなのか。

 ジャームッシュの純血主義が生んだ美しい吸血鬼カップル。私には彼の提示する“吸血鬼 vs ゾンビ”という図式がどうしてもしっくりこない。ゾンビが醜悪なのは分かる。ジャームッシュの苛立ちも分かる。しかし、ゾンビと比べて吸血鬼はそんなに偉いのか? 高貴なのか? カッコいいのか?


吸血鬼とゾンビはどちらがクールか

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『吸血鬼』(1932)──吸血鬼化した棺の中の主人公

 映画史において、見る者をうっとりさせるような高貴で優美でセクシャルなイメージを吸血鬼が纏ったのは、トッド・ブラウニング監督『魔人ドラキュラ』(1931)でドラキュラ伯爵を演じたベラ・ルゴシが最初である。このイメージは後に『吸血鬼ドラキュラ』(1958)をはじめとする英ハマー・フィルム制作/クリストファー・リー主演のドラキュラ映画シリーズに引き継がれ、現代における一般的な吸血鬼像を決定した。しかし、それ以前の最初期の作品──同じくブラム・ストーカーの小説を原作とし、吸血鬼映画の古典として有名なF・W・ムルナウ監督『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1922)、カール・テオドア・ドライヤー監督『吸血鬼』(1932)──においては、吸血鬼は高貴でも優美でもカッコよくもなく、ただ単純に不気味な存在だった。

 ドライヤー『吸血鬼』の劇中で示される吸血鬼に関する説明を、参考までに以下に引用しておく(淀川長治総監修『世界クラシック名画100撰集』版の日本語字幕より)

  吸血鬼と呼ばれる恐ろしい悪魔について……
  生前 悪行ばかりしたせいで成仏できないでいる死者が
  満月の夜 棺の中から蘇る
  暗黒の世界での命を長らえるために
  子供や若者の生き血を吸いに来るのだ
  
  闇の世界の帝王も彼ら吸血鬼の仲間であり
  夜になると地獄の底から人間界へと訪れ
  死と絶望の種をまいていく
  吸血鬼の手に墜ちた者は皆 絶望的に衰弱していく
  猫にでも咬まれたような首の傷がその呪いの印なのだ
  
  人間の生き血を求める吸血鬼の犠牲となった者は
  自らも人間の生き血を欲する吸血鬼となっていき
  愛する者を犠牲者としていく
  こうして家族全員 村全体が呪われていくのだ
  
  昔 クルタンピエール村で伝染病が広まり 11人の犠牲を出した
  医者たちはその病気に学術上の難しい病名をつけたが
  村人の間では ある吸血鬼の仕業だという噂が広まった

  
 映画『吸血鬼』に、私たち現代人が期待するような吸血鬼は登場しない。吸血鬼は実体のない不吉な影のようなものとして描かれている。吸血鬼に呪われた人間は病人のように床に臥す。吸血鬼化した人物の様子は、まさしく病んだ人、あるいは、単なる危ない人である。薄気味悪いその表情は、ジョージ・A・ロメロ監督『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(1968)の死者たちに似ていて、今の感覚で観ると、吸血鬼映画と言うよりは、むしろゾンビ映画(あるいは、オカルト映画)に近い印象を受ける。

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『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1922)──忍び寄る吸血鬼の黒い影

 ここで注目したいのは、吸血鬼なる魔物の強い伝染性である。影のように忍び寄り、次から次へと連鎖的に人々を死に至らしめる吸血鬼。明らかにそれは疫病──具体的にはペスト(黒死病)──のメタファーである。ムルナウの『吸血鬼ノスフェラトゥ』においても、吸血鬼はペストと強く関連づけられている。実際、マックス・シュレック演じる吸血鬼=オルロック伯爵の不気味極まりない造形は、ペスト菌を運ぶネズミにそっくりだ。

 吸血鬼と同様、ゾンビが強い伝染力を特徴とするモンスターであることは先にも書いた。吸血鬼がペストなら、ゾンビによって暗喩されるのは、もっぱら、資本主義が発達した消費社会に蔓延する私たち現代人の精神的な病である。それは例えば、テレビ、広告、通販番組、ショッピングモールなどを通じて伝染する。要するに、吸血鬼もゾンビも、具体的な症状がどうであれ、正体はいずれも伝染性・流行性の病気ということになる。

 吸血鬼の立場からゾンビを卑下するジャームッシュだが、結局、元を辿れば、吸血鬼もゾンビと同じ穴の狢ではないのか。どちらも病んでいることに変わりはない。例えば、“インフルエンザよりもペストの方がカッコいいぜ”と言ったところで、そこに一体何の意味があるのか。病気にカッコいいもクソもない。『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』でジャームッシュは、単にゾンビとは違う種類の病気──ネット上では“中二病”と指摘する向きもある──を撒き散らしているだけではないのか(流行性とはいえ、約1ヶ月であっさり上映終了、その上、私が行った時は観客が20人ほどしかおらず、映画自体は決して流行っているようには見えなかったが)

 『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』を観て、芸術史への細かい言及やら、ティルダ・スウィントンの麗姿やら、アンティークで溢れたアダムの部屋やらに魅せられてしまった人は、伝染病の立派な感染者である。私はジャームッシュ映画のファンだが、今回は感染しなかった。いや、正直に言うと少し感染してしまったのだが、約2週間の闘病の末、これを完治した。この長文がその闘病生活の記録である。この映画はいずれDVD/ブルーレイで発売され、今後、広い範囲で感染者を増やす恐れがある。私のこの闘病記が、多くの人にとって吸血鬼撃退のための処方箋となることを願う。

2014年2月14日
ウィルハフ・ターキン


画像資料:
Only Lovers Left Alive: The Vampire Chronicles

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