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『ウエスト・サイド・ストーリー』@東急シアターオーブ 2012



 『ウエスト・サイド・ストーリー』来日公演を観た。

 現代のマンハッタンの下町を舞台に、2つの不良少年グループ──白人のジェット団とプエルトリコ系のシャーク団──の対立と、それに翻弄される男女の悲恋を描いた'57年初演のブロードウェイ・ミュージカル。'61年に公開された映画版も大ヒット。世界中で繰り返し上演されてきた舞台版、作品賞ほかアカデミー全10部門を受賞した映画版共に、今なお根強い人気を誇る作品である。映画版はマイケル・ジャクソンの'80年代の音楽ヴィデオ「Beat It」「Bad」「The Way You Make Me Feel」にも莫大な影響を与えた。ミュージカルに興味がない人でも、この作品の存在を知らない人は恐らくいないだろう。

 私が舞台版を観るのは実は今回が初めてだった。私は基本的に映画ファンで、ミュージカル映画はそこそこ観ているのだが、舞台となると完全に門外漢である。とはいえ、さすがに『ウエスト・サイド』くらいは観ておかないとヤバいな、と思い、“待望のブロードウェイ版、48年ぶり来日”という謳い文句にもそそのかされつつ、13,000円のS席チケットを購入した。半ば確認のつもりで観に行ったのだが……映画でよく知っていたはずのこの古典に、結局、私は今更ながら大感動させられてしまった。全く間抜けな話ではあるのだが、恥を忍びつつ、“私は如何にして映画偏愛主義を止めて舞台版を愛するようになったか”について書くことにしたい。


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ウエスト・サイド・ストーリー
WEST SIDE STORY
脚本/演出:アーサー・ローレンツ
作曲:レナード・バーンスタイン
作詞:スティーヴン・ソンドハイム
振付:ジェローム・ロビンズ
ツアー演出:デヴィッド・セイント
振付再現:ジョーイ・マクニーリー
音楽監督:ジョン・オニール
出演:ロス・リカイツ(トニー)、イヴィ・オルティーズ(マリア)、ミシェル・アラビナ(アニタ)、ドリュー・フォスター(リフ)、ジャーマン・サンティアゴ(ベルナルド)、他

東京公演/東急シアターオーブ(2012年7月18日〜8月5日)
大阪公演/オリックス劇場(2012年8月8日〜8月12日)

 『ウエスト・サイド・ストーリー』は、ちょうど3年前の夏、'09年7〜8月に50周年記念世界ツアー・カンパニーによる来日公演があった。当時、私はこのブログのためにマイケル・ジャクソンの追悼記事を執筆中だったこともあり、行こうかどうか迷ったのだが、悪席しか残っていなかったことや、同年10月のミュージカル『CHICAGO』来日公演のチケットを購入していて財政状態があまり芳しくなかったせいで、チャンスを見送ってしまったのだった(とはいえ、『CHICAGO』は2公演も観てしまったのだが……)。なので、今回は観に行かないわけにはいかなかった。

 3年前の50周年記念ツアー版と今回のブロードウェイ版はどう違うのか。もともとブロードウェイで上演された作品なので、どちらも“ブロードウェイ・ミュージカル”には違いないのだが、今回の版は、オリジナルの脚本を書いたアーサー・ローレンツが自ら初めて演出を手掛け、'09〜11年に実際にブロードウェイで上演されたプロダクションであるという点が基本的に違う。参考までに、ブロードウェイでの『ウエスト・サイド』上演歴を以下に簡単にまとめておく(IBDBの情報に基づく)。

【初演版】ジェローム・ロビンズ演出
'57年9月26日〜'59年6月27日(732公演)
Winter Garden Theatre(一時期、Broadway Theatre)
《全米ツアー公演》
【初演版 凱旋公演】ジェローム・ロビンズ演出
'60年4月27日〜'60年12月10日(249公演)
Winter Garden Theatre(後にAlvin Theatre)
【リバイバル版】ジェラルド・フリードマン演出
'64年4月8日〜'64年5月3日(31公演)
City Centre
【リバイバル版】ジェローム・ロビンズ演出
'80年2月14日〜'80年11月30日(333公演)
Minscoff Theatre
【リバイバル版】アーサー・ローレンツ演出
'09年3月19日〜'11年1月2日(748公演)
Palace Theatre


 オリジナルの演出/振付、および、映画版で監督も務めたジェローム・ロビンズ('98年没)が自ら手掛けたのは、'57〜60年初演版と'80年リバイバル版の2つ('58〜61年に1039公演を行ったロンドンのウェスト・エンド版も彼が手掛けた)。今回の来日で上演された版は、“作品の生みの親の1人であるアーサー・ローレンツがこだわりを持って初演版の舞台を復活させた最新プロダクション”と紹介されているが、シャーク団のメンバーたちに母国語のスペイン語を喋らせたり、いくつかの場面で大きく演出を変えるなど、実際には初演版の“復活”とは言い難い内容になっている(現代的にアレンジされているという意味での“復活”なのかもしれないが、少なくとも初演版を忠実に再現したものではない)。おまけに、ローレンツは'11年5月に他界しており、今回上演された版では、'09年リバイバル版で助演出を務めていたデヴィッド・セイントが正式に演出に就任している。もちろん、'09年リバイバル版のブロードウェイ・キャストが来日するわけでもない(端役には数名含まれているが)。今回やって来たのは、飽くまで、新たに演出された'09年ブロードウェイ・リバイバル版に更に演出を加えたツアー・カンパニーである。宣伝でもパンフレットでも、ここらへんの経緯がきちんと説明されていない。内容もキャストも素晴らしいのだから、“待望のブロードウェイ版、48年ぶり来日”、“これが本当の『ウエスト・サイド・ストーリー』。初演時の衝撃が、渋谷の新劇場で蘇る”などと煽るだけでなく、主催者側には、観客が一体どういう版を観ているのか理解できるよう、もっと詳しくプロダクションの来歴を説明して欲しいと思う(“48年ぶり”と大きく謳いながら、パンフレットでは48年前のブロードウェイ版来日公演にも一切触れられていない。'64年11月に日生劇場で行われた前回のブロードウェイ版の来日は、ジェラルド・フリードマン演出のリバイバル版だったのだろうか? 3年前の50周年記念ツアー版についても言及がない。ちなみに、50周年記念ツアー版で演出/振付再現を務めていたのは、今回のリバイバル版でも振付再現を担当しているジョーイ・マクニーリーだった)

 いきなり話が細かくなったが、今回のリバイバル版のプロダクションやキャストが過去の版とどう違うか、という話は実はどうでもいい。なにせ、私は舞台版自体を観るのが初めてなのだ。私の事前の興味は、今回の演出やキャストの出来はどうだろう、などというハイレベルなものではなく、舞台版は映画版と一体どう違うのか──このひどく単純で初歩的な一点のみだった。曲順など、構成にいくつか大きな違いがあることは知っていたが、表現そのものの違いはやはり実際に舞台を観ないと分からない。私は指パッチンをしながら真新しい東急シアターオーブへと向かった。


舞台版『ウエスト・サイド』──主役はやはりトニーとマリアだった(笑)

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ダンス・パーティー場面のシャーク団(中央=ベルナルドとアニタ)

 私の座席は1階席の12列目だったが、今回の公演では前5列分のスペースがオーケストラ・ピットになっているため、実質的には7列目だった。オーケストラ・ピットは1メートルちょっと床下に潜っており、ステージ前の空間は塹壕のような巨大な穴になっている(座席だけでなく、床そのものが撤去されている)。開演前に最前列まで行って腰ほどの高さの柵ごしに下を覗き込むと、“塹壕”の底で楽器の準備をするオーケストラ団員たちが見えた。バルコニー席から見下ろさない限り、オーケストラの姿は観客の目には入らない。

 ステージは巨大なガレージのような雰囲気で、開演前は“JETS”“SHARKS”などのグラフィティで埋め尽くされた壁──映画のエンドロールを思わせる──で覆われていた。ステージ全体を覆うその“壁”の正体は布製の緞帳なのだが、これが本当に固い材質で出来た壁のように見えた。ウェスト・サイド地区の一郭を再現したこのステージ美術を見ただけで私は既に興奮していた。


【Act 1】
《The Neighborhood 街角》
"Prologue" - The Sharks and the Jets
"Jet Song" - Riff and the Jets
《Outside Doc's Drugstore ドラッグストアの外》
"Something's Coming" - Tony
《Bridal Shop ブライダルショップ》
《The Gym 体育館》
"Dance at the Gym" - Company
"Maria" - Tony
《Alleyways 路地》
"Tonight" - Tony and Maria
"America" - Anita, Rosalia and Shark girls
《The Drugstore ドラッグストア》
"Cool" - Riff, Jet boys and Jet girls
《Bridal Shop ブライダルショップ》
"One Hand One Heart" - Tony and Maria
《The Neighborhood 街角》
"Tonight" (Quintet) - Company
《Under the Highway ハイウェイの高架下》
"The Rumble"

【Act 2】
《Maria's Bedroom マリアの寝室》
"I Feel Pretty (Me Siento Hermosa)" - Maria, Rosalia, Consuela and Fernanda
"Somewhere" - Anybodys, Tony, Maria and Company
《The Neighborhood 街角》
"Gee, Officer Krupke" - Action and the Jets
《Maria's Bedroom マリアの寝室》
"A Boy Like That / I Have a Love" - Anita and Maria
《The Drugstore ドラッグストア》
《The Cellar 地下室》
《The Neighborhood 街角》



 劇の進行と曲目は上記の通り(パンフレットに基づく)。プロダクションによって微妙な違いはあるが、舞台版は基本的にこの構成である。この時点で映画版と異なる点があることが分かる。上演時間は、第1幕が85分、第2幕が45分(間に20分休憩)。これも場合によって異なるが、ネット上で通人の感想をいくつか参照すると、今回のプロダクションは従来のものより上演時間が短く、テンポよく進行するのがひとつの特徴だったらしい。

 どうでもいい話だが、“Jets”“Sharks”という集団名は、今回のパンフレットでは“ジェッツ”“シャークス”という完全なカタカナ表記になっていた。なんでもかんでも英語をそのままカタカナ表記にするのはここ数十年の傾向ではあるが、私は“ジェット団”“シャーク団”という昔ながらの表記が好きなので、ここではそのように書くことにする。その方がなんとなく団結力があって強そうだし、カッコいいからである(音楽グループ名でも、“〜s”という名称はすべて“〜団”にしてしまえばいいと私は思っている。“ビートル団”、“ローリング・ストーン団”、“アニマル団”、“タイガー団”、“スパイダー団”、“ミラクル団”、“ジャクソン団”、“セックス・ピストル団”、“ママ団&パパ団”とか)。『ウエスト・サイド・ストーリー』という作品名にしても、映画版の正式邦題『ウエスト・サイド物語』という表記の方が私はしっくりくる。日本人はカタカナですぐに分かったようなふりをせず、できるだけきちんと日本語を使うよう心掛けるべきだと思う。

 『ロミオとジュリエット』を下地にした筋書きなど、作品内容に関しての細かい説明は省く。映画版は多くの人が観ているだろうし、そうでなくてもDVDでいつでも鑑賞することができる。ここでは、読者が映画版を知っていることを前提に、映画版しか知らなかった私が舞台版を観ながら感じたことを書くことにする。


【Act 1】

《The Neighborhood 街角》
"Prologue" - The Sharks and the Jets

 客電が落ちるとオーケストラの演奏と共に幕が開き、ジェット団とシャーク団が路上で絡む例のダンス場面が始まった。プロダクションによっては、この前に「Overture(序曲)」が演奏される場合があるようだが、今回はなかった。マンハッタンの垂直俯瞰があるわけもなく、いきなり本題に入るのでちょっと面食らってしまう。ジョン・オニール指揮のオーケストラによる生演奏はタイトで素晴らしい。期待を高めながら観客をスムーズに芝居の世界へ誘い込むためにも、挿入曲を散りばめた「Overture」は是非とも欲しいと思った。
 ステージの背景は日が落ちた夕暮れ時の雰囲気で、白昼の路上で踊る映画版とは印象が違う。ジェット団とシャーク団が路上で鉢合わせになり、両グループの下っ端同士の小競り合いから大乱闘へ発展するという流れは一緒である。次々とメンバーが現れ、“お先にどうぞ”のジェスチャーで形勢が逆転していくあたりも同じだ。ただ、彼らが縄張りにする街中の様々な場所を見せながら、ローアングル、クレーン、移動撮影などを駆使してダイナミックにダンスを捉えた映画版の圧倒的な視覚イメージに較べると、舞台版からは、地味というか、随分とあっさりした印象を受けた。シャーク団の3人が両手を広げて片脚を上げる有名な振りは(私が観た公演に関しては)揃い具合がいまいちだった。ダンス自体は力強いが、動きはやや性急である。「Prologue」は映画版の圧勝だ。

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映画版「Prologue」の撮影風景(ローアングル撮影では地面によく穴が掘られる)

"Jet Song" - Riff and the Jets

 シュランク警部補とクラプキ巡査が現れて乱闘が終わる。“もう一度スペイン語で言ってもらえますか”というベルナルドのおちょくりがなかった(と思う)。ベルナルド役のジャーマン・サンティアゴは、もちろんジョージ・チャキリスのようにカッコよくない。チャキリス演じるベルナルドのクールで理知的でヒロイックなイメージはなく、もっと骨太で単細胞なキャラになっていたが、その適度なバカさ加減が逆に良いと思った。チャキリスは脇役にしてはどう考えてもカッコよすぎる。ここでひとつ印象的だったのは、クラプキが退場する際、ジェット団員の一人をいたぶり、遊び半分で頭部に銃を突きつけて脅す場面。この版のオリジナル演出らしいが、この暴力描写は現代的で非常にインパクトがあった。シュランク&クラプキはどこにでもいそうな腹の出た白人のおっさんで、映画版と全く同じイメージだった。
 その後、“シャーク団潰す! トニーの助けが要るぜ!”という話になり、「Jet Song」になるわけだが、肝心のリフ役のドリュー・フォスターという役者が冴えない。身長が中学生くらいしかなく、ジェット団の他のメンバーたちよりも明らかに弱そうなのだ。なんでお前がリーダーなんだ。一応、リーダーらしくクールに振る舞おうとはしているのだが、まるで威厳が感じられないし、何を喋っても台詞の棒読みに聞こえてしまう。この勘違いキャラは、リフよりも、むしろ自分を2番手だと思い込んでいるアクション向きではないか……と思ってパンフで経歴を見たら、過去の『ウエスト・サイド』ツアー公演で彼は実際にアクションを演じていた(笑)。彼の歌声もさっぱり印象に残っていないが、最後にメンバー全員揃って歌い終わったところで客席から拍手が起こったことは覚えている。ここが最初に観客が拍手するタイミングだった。
 
《Outside Doc's Drugstore ドラッグストアの外》
"Something's Coming" - Tony

 ステージ中央にドラッグストアの入口部分の小さなセットが現れ、トニーが脚立に乗って店の看板の修理だか掃除だかペンキ塗りをしている(忘れた)。少なくとも、店の裏手でコーラ瓶を運んでいる映画版とは作業内容が違う。シャークどもに決闘を申し込むからダンス・パーティーに来てくれろ、というリフの頼みを渋々承諾した後、“なんかいいことありそう〜”というトニーの歌が始まる。これが素晴らしい。トニー役のロス・リカイツのまろやかで力強い歌声に私は完全に意表を突かれた。当たり前だが、舞台版では役者が観客の目の前でライヴで歌う。登場人物の心情は、映画よりも遙かに生々しくダイレクトに観客に迫ってくる。私はトニーの歌に感動していた。この日、初めての感動だった。リチャード・ベイマーが演じた映画版のトニーは、恋に浮かれて周りが見えない単なる役立たずの唐変木にしか見えないのだが、ロス・リカイツは初登場場面の「Something's Coming」1曲で、それまで登場した誰よりも強い存在感を示した。間違いなく主役の存在感だった。彼の歌が終わった瞬間、客席からドッと大拍手がわき起こった。

《Bridal Shop ブライダルショップ》

 ステージ左手にブライダルショップの簡単なセットが現れ、そこでアニタがマリアのためにダンス・パーティー用のドレスを用意している。'09年リバイバル版では、プエルトリコ移民のシャーク団たちは仲間内ではスペイン語を話す、という新演出が加えられている。スペイン語と英語のチャンポンなのだが、これは自然で、芝居も説得力を増すので大変良い演出だと思う。対等であるべき2つの不良グループは、映画版ではシャーク団の方が何となく善玉っぽい印象を与えてしまっているが(チャキリスのせい)、観客が理解できない言語を導入することで“よそ者”感が強調され、彼らに対する観客の過度の感情移入を防ぐ効果もあると思う。
 ベルナルドとチノの登場後、出来上がったドレスを試着してマリアが鏡の前に立つ。ステージ上に鏡は実在しない。鏡はステージと客席の間にあることになっていて、マリアは観客に向かって晴れ姿を披露するのである。なるほど。クルクル回るマリアをスポットライトが照らし、薄暗くなったステージはそのまま自然にダンス・パーティー会場の体育館へ移り変わっていく。この幻想的な場面転換は映画版と全く同じだった(転換中、天井から垂れ幕状のすだれがステージ前方に下りて幻想的なムードを高めていた)。

《The Gym 体育館》
"Dance at the Gym" - Company

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ダンス・パーティー場面のジェット団(中央=リフとグラジェラ)

 体育館での賑やかなダンス・パーティー。まず、体育館場面に移行して早々、いきなりトニーが現れてジェット団に合流したことに大きな違和感を覚えた(シャーク団の到着より先。エニバディズが尻を蹴られる場面よりも前だった気がする。本当に速攻で会場入りしてきた)。堅気のトニーはリフの誘いにあまり乗り気でなかったので、映画版のように、少し遅れてやって来た方が自然だと思うのだが……。トニー、女と出会う気満々である(よほど良い予感がしたのかもしれない)。交歓ダンスの段取りを説明するグラッド・ハンドはかなり癖のあるキャラで、彼の台詞場面は映画版にはないコミカルさがあって面白かった(シャーク団にはスペイン語で説明していた)。映画版では、二重の輪を作って男女が左右に歩き始める際、ジェット団の女の一人が逆方向に歩き出してしまうのがバカっぽくて好きなのだが、舞台版では誰も間違えていなかった。
 ジェット団とシャーク団がステージ全体を使って入り乱れる群舞は大迫力である。このダンス合戦の臨場感は舞台ならではだ。照明も映画版よりずっと暗めで、ダンス・パーティーらしい熱気が溢れていた(映画版のダンス・パーティー場面は観る度に照明の明るさと体育館のセット臭さが気になってしまう。赤い壁を見せたいのは分かるが……。カメラも群舞の活気をいまいち捉えきれていないように思う)。リフ役のフォスターはチビなので、群舞になるとすぐにどこにいるか分からなくなる。とんぼ返りもなかった。リフはやはり、ガキ大将然としたラス・タンブリンが最高である。今回の舞台を観ながら、私はタンブリンの素晴らしさを改めて思い知らされた。
 ダンス・フロアの喧騒の中でトニーとマリアが互いを発見する。オーケストラの演奏が徐々に抑えられ、照明がステージ両端にいる2人を浮かび上がらせる。映画版と同じ演出だ。2人のダンスの冒頭部分の振付は、映画版では向き合った両者が距離を置いて微妙に身体を前に傾ける程度だが、舞台版ではキスでもするように身を寄せ合っていたので驚いた。トニーとマリアは映画版より遙かに大胆である(改めて断っておくが、私は他の舞台版を観たことがない。これらは飽くまで今回の版の話であり、舞台版『ウエスト・サイド』が一般的にそうだということではない)。

"Maria" - Tony

 “おまえら何やっとるんじゃー!”とベルナルドが怒り、決闘の取り決め場所の伝達とマリアの退場が済んだ後、トニーが「Maria」を歌い始める。これも素晴らしかった。舞台版では彼の夢想的で情熱的なキャラが空回りせず、きちんと観客の心を掴んでいたように思う。彼はがむしゃらに生きようとしている。トニーというキャラクターの株は私の中でどんどん上がっていった。

《Alleyways 路地》
"Tonight" - Tony and Maria

 「Maria」が終わると同時に、ステージ右袖からマリアを乗せた非常階段のセットが現れ、2人の密会場面へとスムーズに移行する。映画版ではここでシャーク団の男女による「America」だが、舞台版では順序が逆なのだ。「Maria」と「Tonight」は組曲のように結びついて、2人の恋を一気に燃え上がらせる。この展開は映画版しか知らなかった私には強烈だった。群像劇としては、「Maria」→「America」→「Tonight」の順の方がバランスが取れる。舞台版は「Maria」と「Tonight」が繋がっているせいで、トニー&マリアの運命的出会いが強調され、2人の愛の絆がより強まっている印象を受ける。現代版『ロミオとジュリエット』という点では、舞踏会→バルコニーという流れを踏襲した舞台版の曲順が正解だろう。2人は本当にラブラブで、出会ってまだろくに話もしていないのに、非常階段でいきなりキスしまくっていた。とにかく熱い。舞台の場合、これくらい分かりやすい方が良いのかもしれない。
 イヴィ・オルティーズ演じるマリアは、ナタリー・ウッドのマリアほど清楚で可憐ではなかったが、それなりに雰囲気は出ていたと思う。ただ、「Tonight」で初めて歌声が披露された時、声質がやけに固いのが気になった。もう少し柔らさが欲しかったが……。それでも、2人が歌う「Tonight」には感動した。これはとにかく横綱級の名曲であって、楽曲だけでも十分に私を圧倒するパワーがあった。特に印象的だったのは、台詞を挟んで最後に2人が別れる際、“Good night, Good night...”を歌うところ。ここは映画版より遙かに自然で、見事な決まり具合だった。
 あと、この場面でもうひとつ私を感動させたのは、非常階段の高さである。映画版では階段上で歌う2人をカメラが真横から捉えているので、彼らのいる場所の高さがさっぱり感じられない。舞台版の場合、観客は非常階段セット(2メートルちょっとある)の上にいる2人を終始見上げることになる。この“高み”はそのまま2人の恋の“高み”であって、高所で歌われることによって「Tonight」はより一層高揚感を増すのである。この歌のメロディには飛翔するような感覚がある。映画版で2人の歌唱場面にローアングルが使われなかったことが私には不思議でならない。

"America" - Anita, Rosalia and Shark girls

 トニーが去ったところで、マリアを除くシャーク団の面々による「America」……なのだが、男たちはジェット団との会合のためにさっさと外出してしまい、女たちだけが残る。舞台版で「America」は女性陣だけで歌われるのである。シャーク団の男女たちが移民としての複雑な思いを華やかな歌と踊りで軽妙に表現する「America」は、映画の中でも私の一番のお気に入りナンバーだ。男性キャスト不在で完成された舞台版「America」は、初演までに男女混合版に改変されるはずだったが、時間的余裕がなかったためそのままになったらしい(それを映画版で実現させたのは分かるが、では、なぜロビンズは舞台版も後から男女混合版に変えなかったのだろう?)。初めて観る舞台版「America」は新鮮で面白かった。女性陣だけなので、映画版よりもチャーミングである。ここではアニタが大活躍する。気が強くてちょっとキツめだが愛嬌のある姉御アニタを、ミシェル・アラビナは無理なく演じていた。歌、踊り、芝居のどれも安定感がある。彼女のアニタは、映画版でリタ・モレノが演じた肉感的なアニタよりも、初演版オリジナル・キャストだったチタ・リヴェラのアニタにイメージが近いように思う(もちろん、実際に観たわけではないので想像に過ぎないが)。今回のキャストの中では、個人的にはこの人が最もしっくり来た。

《The Drugstore ドラッグストア》
"Cool" - Riff, Jet boys and Jet girls

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ジェット団による「Cool」(前列中央=リフとアクション)

 映画版と舞台版の最大の違いがここだ。映画版で決闘後の後半に登場する「Cool」は、舞台版では前半、決闘の取り決めが行われる直前に登場する。場所は駐車場ではなく、会合場所のドラッグストア。要するに「Gee, Officer Krupke」と入れ替えられているのだ。もちろん、リフはまだ生きている。シャーク団との決闘に興奮する団員たちを、リフが“おまえら落ち着け”となだめるところで「Cool」となる。アイスではなく、リフが中心の「Cool」である(実は、舞台版に“アイス”という名のジェット団員は登場しない)。
 ナンバーが始まった当初、ステージ上にはドラッグストア店内のセットがあるが、途中から取り払われ、ダンスはステージ全体を使ってどんどんスケールと緊張感を増していく(後半に出てくるあの不穏なストリングスの響きには鳥肌が立った)。ジェット団の男女たちが各自でフラストレーションを表現しながら、徐々に大きなうねりを生み出していく「Cool」。個々の動きと集団のアンサンブルが同時に一望できる舞台版、それらを複雑なカット割りで見事に再構成した映画版、これはどちらも甲乙つけがたい。“シャークスの振付の多くは集団的で家族的あるいはカップルなのに対して、ジェッツは単独的なんだ。個々人の怒りさ”──振付再現を担当したジョーイ・マクニーリーは、ジェローム・ロビンズの振付の意図をそう説明する(パンフレットより)。「America」(男女混合版)と「Cool」の対比によって、両グループの個性の違いはより明確になるだろう。決闘へ向けて着実に緊張感を高めていくためにも、「Cool」は「America」後のこの位置が正しいように思う。映画版でラス・タンブリンが主導する「Cool」を是非とも観てみたかった。

 その後、シャーク団がドラッグストアに現れ、決闘の取り決めが行われる(映画版では椅子に座って話し合われるが、今回の舞台版では全員立ったままだった)。“男なら素手で勝負だ”とトニーが提案、トニーとベルナルドの間で勝手に話が決まりかけたところで、リフが“決めるのはオレだ”と横から割り込んできて、“素手勝負だ”と正式に合意する。この場面でのリフ役のドリュー・フォスターの芝居が妙に不自然だった。おまえは引っ込んでろ、とトニーとベルナルド(あるいは、その場にいる全員)からハタかれてもおかしくないような間の悪さ、頼りなさである。フォスターの芝居にはリーダーとしての貫禄や落ち着きが全く感じられない。おまえが一番落ち着け、と言いたい。
 ジェット団を代表して戦うのは、グループ2番手のディーゼルという大男。映画版でアイスに当たる人物だが、舞台版でディーゼルはさほど重要な役ではない。映画版では、リフの代わりに「Cool」でリーダーを務め、役の重要度が大きく変わったため、アイスという別名が与えられたのだ。リフが“うちはこいつが戦う”と巨漢のディーゼルをベルナルドに引き合わせる場面は、リフ役のフォスターとディーゼル役の俳優(上の写真、前列右端)の身長差が激烈。ベルナルドの“こいつかよっ!(デカっ!)”というリアクションがリアルで、思わず笑ってしまった。フォスターがチビで良かったのは、この場面だけである。

《Bridal Shop ブライダルショップ》
"One Hand One Heart" - Tony and Maria

 翌日の夕方、ブライダルショップでトニーとマリアが密会。アニタにバレるが見逃され、2人で結婚式ごっこに興じる。映画版ではこの前に「I Feel Pretty」があるが、舞台版では決闘後である。映画版の「I Feel Pretty」〜「One Hand One Heart」のくだりは、流れとしては自然だが、この2曲は分散させた方が決闘へ向けた緊張感と勢いを持続でき、尚かつ、トニーとマリアが悲劇に巻き込まれていく感じがより強調できると思う。

《The Neighborhood 街角》
"Tonight" (Quintet) - Company

 舞台版で私が最も感動したのがここである。決闘へ向けて奮い立つジェット団とシャーク団、決闘後のベルナルドとの情事を心待ちにするアニタ、マリアと結ばれることを夢見るトニー、愛する男を信じて待つマリア。五者それぞれの思いが交錯しながら運命の“今夜”へと突き進んでいくこの五重唱場面に、私は涙が出そうになるくらいの感動を覚えた。映画版では五者の様子をカットを入れ替えながらそれぞれ単独で見せているが、舞台版では五者がステージ上に点在し、それぞれ違う場所にいることを示しながら(アニタはアパートのセット、トニーはドラッグストアのセット、マリアは非常階段のセット上で歌う)、尚かつステージ上に全員が同時に存在することで、異なる人間模様が素晴らしいタペストリーを紡ぎだしていた。観客は、五者を個別に見ながら、同時に常に全体を見ている。これは舞台表現の強みだろう。映画でもシネスコ画面を5分割すれば同じことができるが(当然、考慮されただろう)、各々の画が小さくなるので、どうしても迫力に欠ける。「Tonight」五重唱に関しては、映画は絶対に舞台版を超えることはできないと断言できる。私は歌の力にただただ圧倒された。この場面は本当に素晴らしかった。

《Under the Highway ハイウェイの高架下》
"The Rumble"

 高架下での決闘。この場面ではステージ前方に巨大な金網が現れ、緞帳のようにステージ全面を覆った。観客は金網ごしに決闘を眺めることになる(シャーデーの'01年&'11年ツアーの透過スクリーンが金網になった状態を想像して欲しい)。この金網には、悲劇を招く彼らの閉塞した心理状態を表現すると同時に、実際に観客が現場で決闘を覗き込むような面白い効果があったが、客席とステージが仕切られている分、芝居はあまりダイレクトに迫って来ない。この演出には一長一短があると感じた。
 決闘場面に関しては、やはり映画版の方が現実的で迫力がある。特に飛び出しナイフを取り出す場面。刃先がギラッと光るあのワンカットのインパクトに舞台版はどうしても敵わないように思う。立ち回りの末、リフがベルナルドのナイフに吸い込まれるようにして刺される。どう見ても自ら刺されに行っているようにしか見えない不思議な動きは舞台版も一緒だった。あれは運命の力なのだろうか。すべてが終わり、若者たちが全員姿を消した後、2つの死体だけが残るステージに静かに幕が下りていく。この余韻が何とも言えない。ここで第1幕終了。

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映画版の決闘場面の稽古風景──チャキリスとタンブリンの2人を指導するロビンズ


【Act 2】

 おいしい場面は全部終わっちまったなあ〜、と消化試合でも観戦するような気分で第2幕を迎える。85分の第1幕に対し、第2幕は45分と時間も約半分。第2幕はどうしても物足りない印象を受けるが、物語全体のバランスを考えると、決闘後はこれくらいの短さで丁度良いのである。今回の版は全部合わせても130分しかない。これなら休憩なしで一気に上演してしまった方が良いのではないか。第1幕と第2幕の間に休憩を入れるという慣習にこだわる必要はないと思うのだが。

《Maria's Bedroom マリアの寝室》
"I Feel Pretty (Me Siento Hermosa)" - Maria, Rosalia, Consuela and Fernanda

 物語の中での位置は違うが、映画版と同様、休憩後は「I Feel Pretty」から始まる。映画版では決闘前だが、舞台版では悲劇が起こった後にこの陽気な歌が歌われる。自室で待っているマリアは、愛するトニーが自分の兄を刺殺してしまった事実をまだ知らないのだ。可哀想なマリア。同じパフォーマンスでありながら、この状況設定によって、舞台版「I Feel Pretty」には映画版にはない深みが加わっている。映画版でこの歌は単なる幸せボケのハッピー・ソングに過ぎない。更に、お惚気ナンバー「One Hand One Heart」と接続することで、トニー&マリアの恋愛とジェット団&シャーク団の抗争の温度差を必要以上に広げてしまっている。つまり、映画版のトニー&マリアは、決闘に向けて緊張するリフやベルナルドたちに較べて、あまりにも脳天気に見えるのだ。映画版のトニーがバカっぽく、どうしても主役に感じられない原因はこの曲順にもあるだろう。「I Feel Pretty」の位置は絶対に舞台版の方が正しい。
 ステージ左端にマリアの寝室のセットがあり、そこで女友達らと「I Feel Pretty」が歌われる(今回の版ではスペイン語と英語のチャンポン)。このナンバーでは、マリアと一緒に歌っていた女優の一人(役名不明)がものすごいロングトーンを聴かせて大喝采を浴びた。一度拍手が起こった後、更に延々と声を伸ばし続けて観客を驚愕させたので、相当な長さである。30秒くらいは伸ばしていただろうか。あんなに声を出し続ける歌手は初めて見た。一体どんな肺活量なんだ。その後、マリア役のミシェル・アラビナもこれに負けじとロングトーンを聴かせて盛り上げた。ライヴ・パフォーマンスならでは見せ所である。期待薄だった第2幕だが、この力業でまた一気に引き込まれてしまった。

"Somewhere" - Anybodys, Tony, Maria and Company

 決闘から逃げ帰ってきたチノがマリアに衝撃の事実を伝える。いきなり奈落の底に突き落とされたマリアの前に今度はトニーが現れ、2人で“ここではないどこか”を夢想する。「Somewhere」は、映画版では普通に2人で歌うだけだが、舞台版では2人の幻想世界──ジェット団とシャーク団が和解する──を表現した大人数によるバレエ・シークエンスになっている。しかも、通常、メインで歌うのはオフステージのソプラノ歌手。これがアーサー・ローレンツ演出の'09年リバイバル版では、ボーイ・ソプラノ歌手がステージに登場して歌うという演出に変更され、更に今回のデヴィッド・セイント演出によるツアー版では、エニバディズ(ジェット団に加入したがっているやんちゃ娘)が歌うという演出に変更された。セイントはその理由をこう説明する──“僕にとって、彼女はジェッツでもシャークスでもない。ジェッツの一員になりたいけど入れてもらえない。男にもなれないし。つまり彼女はどこにも属していないんだ。そういうキャラクターが「Somewhere」を歌ったら、心に強く訴えるものがあるんじゃないかと思ったんだよ”(パンフレットより)。ツアーにボーイ・ソプラノ歌手を同行させることが困難だったことから、彼はこの代案を閃いたという。これは、どうして今まで誰も思いつかなかったんだ、と思うくらい素晴らしい演出だ。エニバディズという魅力的なキャラクターには、スパイ役以上の使い道がある。『ウエスト・サイド』には、階級差別、人種差別の他にもうひとつ、性差別の問題が織り込まれていた。皆からバカにされ、物語の中で最も虐げられているエニバディズという社会的弱者が和解の鍵を握るという設定は、非常に説得力があると思う。映画で同役を演じたスーザン・オークスも良かったが、今回のアレクザンドラ・フロリンジャーという女優も素晴らしく、幾分レズビアンっぽい雰囲気を漂わせながら、悲しい天使のようなこの不思議なキャラクターを好演していた(歌唱も良かった)。
 「Somewhere」の幻想場面は、理想郷が表現された後、悪夢に変わっていくのが本来の流れだが、今回の版では悪夢部分がカットされていた。本来の形でなかったのは残念だが、初めて舞台版を観る私には何の違和感もなかった(サクッと終わったことで、むしろ話のテンポは良くなっていた)。

《The Neighborhood 街角》
"Gee, Officer Krupke" - Action and the Jets

 舞台版ではこの位置に「Gee, Officer Krupke」が来る。映画版で「Cool」と入れ替えられたのは、殺人事件の後でこんなコミカルな歌を歌うのは不自然だ、というスティーヴン・ソンドハイム(作詞)の意見があったためである。映画ではより現実性が大事になるので、ある意味、これは正しい判断だったと思う。しかし、いずれにせよ映画版でこの歌が不自然であることに変わりはないと思う。あの映画を観る度に私はこの場面で違和感を覚える。仲間同士でふざけ合っているにしても、リーダーのリフが子分たちに頭をポカポカ叩かれてヘラヘラしているのはおかしくないか。不良たちが大人社会を批判しながら寸劇を繰り広げるこのナンバーは、いかにも舞台劇的で、映像的にあまり見映えがするわけでもない。私は、映画版では思い切ってこの曲をカットするべきだったと思う。そして、「Cool」は舞台版と同じくリフ主導のナンバーとして物語前半に置く(場所は駐車場で構わない。体育館からドラッグストアへ向かう途中、駐車場で打ち合わせをしていたということにすれば良い)。映画版はチャキリスとタンブリンの個性が立ちすぎている。“頭を冷やせ”という「Cool」が事件後に歌われること自体は確かに自然だが、残念ながらタッカー・スミスのアイスに物語を牽引する力はない。チャキリスとタンブリンがいなくなった以上、いくら見せ場を作ろうとしても無駄だし、引っ張れば引っ張るほど映画は退屈になる。決闘後は、両リーダーがいなくなった喪失感と共に、一気に最後の悲劇まで突っ走るべきなのだ(「Somewhere」の幻想場面は、マリアの夢という形にして映画版にも取り入れるべきだったと思う。そうすれば、チャキリスとタンブリンを再び登場させることができたからだ。舞台版のバレエは再現せず、大いに映画的飛躍を試みる。うなされて夢から覚めたところで「A Boy Like That / I Have a Love」場面へ繋ぐ)。
 舞台版で「Gee, Officer Krupke」はアクションが中心になって歌われる。自分こそ2番手だと思っている、攻撃的であまり頭の良くない人物である。事件後に歌われることは、舞台版ではそれほど不自然に感じられない。むしろ、アクションをはじめとする残されたジェット団員たちの反省のなさ、手のつけられない馬鹿さ加減が強調され、更なる暴力が引き起こされるラストの悲劇へ上手く繋がっている。アクションを演じたジョン・ドレイクという役者は、今回の舞台でとても光っていた(上掲「Cool」の舞台写真、前列右から2番目のバンダナの男。リフ役は彼の方が相応しい)。あと、この場面ではAラブだけがおふざけに参加せず、ステージの端っこでなぜか一人所在なさそうに突っ立っていた。演出家セイントの説明によると、彼は“新しいリーダーとなったアクションに納得していないから”だそうだが、Aラブのそのような心理は私には全く伝わって来なかった。

《Maria's Bedroom マリアの寝室》
"A Boy Like That / I Have a Love" - Anita and Maria

 トニー&マリアがベッドに裸で寝ているところへアニタが訪れ、トニーが慌てて窓から出ていく。映画版では、窓の外をアニタが眺め、彼女の主観ショット(トニーが路地を去っていく光景)を入れることで、それまでトニーが部屋にいた事実を彼女が知ることになる。舞台ではこれができない。どうするのかと思って見ていたら、アニタは窓の外を覗いた後、上手いことベッドからトニーのアンダーシャツを見つけ出した(笑)。なるほど。
 アニタとマリアが口論する「A Boy Like That / I Have a Love」は、通常の心情表現とは違った、(『シェルブールの雨傘』的な)普通の会話にそのままメロディをつけたような歌である。従来のミュージカルよりリアリティを重んじた『ウエスト・サイド』ではちょっと異質なナンバーだが、舞台版では比較的自然に感じられた。マリアが短時間でアニタを説得するには、やはりどうしても歌の力が必要である。

《The Drugstore ドラッグストア》

 マリアの伝言を伝えるため、アニタがトニーのいるドラッグストアへやって来る。ここでジェット団たちに絡まれ、レイプされそうになるわけだが、この描写がどぎつかった。映画版では、床に押し倒されたアニタの上に、仲間に担がれたベイビー・ジョンがのしかかっていく。舞台版ではベイビー・ジョンではなくAラブが担がれるのだが、なんとAラブはズボンを下ろして下半身を露出していた(もちろんパンツは穿いていたが)。これは今回の版の新演出なのだろうか。現代解釈としてはこれくらい露骨でも構わないと思うが、「Gee, Officer Krupke」で仲間と距離を置いていたAラブが、ここでこのような行為に加担した点が私にはさっぱり理解できなかった。セイントはAラブのキャラを一体どうしたかったのだろう?

《The Cellar 地下室》

 ドラッグストアの地下室で店主ドクとトニーの会話。ドクを演じたのは腹の出た白人中年俳優で、パッと見た感じ、シュランク&クラプキと全く区別がつかない。前半のドラッグストア場面で最初に登場した時、同じ役者が代役でドク役も演っているのかと本気で思った(パンフでキャストの写真を見て、ようやく別人だと確信できた)。ドクはシュランクやクラプキと違い、不良たちから一目置かれている大人である。映画版のように、もっと明確に描き分けなければいけないはずなのに(観客が遠くから役者を眺める舞台版では尚更だ)、なぜあんなキャスティングをしたのだろう。欧米の観客には区別がつくかもしれないが、日本の観客の目には、どちらも“太った白人中年”にしか見えない。

《The Neighborhood 街角》

 マリアがチノに撃ち殺されたと思い込んだトニーが、“チノ、俺も殺せ!”と喚きながら街を彷徨う。マリアが物陰から現れ、“わお! マリア、生きてた〜!”と駆け寄ったところでズドン。この最終場面は、マリアの“Don't you touch him!”という台詞の決まり具合が重要だが(マリア役の女優の真価はこのひとことで大体分かるのではないか。「プレイバック Part 2」における“馬鹿にしないでよ!”と同じだ)、ミシェル・アラビナの“Don't you touch him!”からは、残念ながら映画版ほどの迫力は感じられなかった。
 '09年リバイバル版では、ジェット団とシャーク団のメンバーたちが一緒にトニーの遺体を運ぶというお馴染みのラストが削除されている。アーサー・ローレンツは、この幕切れがロマンチックすぎてリアルじゃないと感じたらしい。今回の舞台版は、トニーの遺体の前にしゃがみ込んでいるマリアにベイビー・ジョンが黒いショールを掛けただけで幕が下りた。あっけない。え、これでおしまい?という感じである。映画ならそれでもいいかもしれない。黒いショールを纏ったマリアのアップショットは、それだけでも十分にラストを飾れるインパクトがあると思う。しかし、舞台では視覚的にあまりにも地味だ。もっと何か動きが欲しい。いくらクサくても、両グループのメンバーたちがトニーの遺体を運ぶという“儀式”はあった方が良いと私は感じた。


より良いエンディングは“どこか”にある

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映画版のラストシーン撮影風景──リチャード・ベイマーを抱きかかえるナタリー・ウッド

 それにしても。この作品は後味が良くない。遺体を運んでも運ばなくても、悲劇的な結末であることに変わりはない。この結末のせいで『ウエスト・サイド』が好きになれないという人も多いだろう。元が『ロミオとジュリエット』である以上、ハッピーエンドはあり得ないわけだが、それにしても、もうちょい何とかならないのか。もっと希望が持てるようなラストは考えられないか。トニーの遺体を一緒に運ぶのがわざとらしいと言うなら……。

 トニーが息を引き取る直前、マリアは彼に向かって「Somewhere」の一節を歌う。これを、トニーが死んだ後に回したらどうか。“ここから抜け出しましょう”(マリア)、“そうだね”(トニー)という会話の後にマリアは歌い始めるが、“そうだね(Yeah, we can)”と言ったところでトニーには事切れてもらう。彼の遺体は運ばない。遺体の前にしゃがみ込むマリアに黒いショールが掛けられた後、少し間を置いて、マリアがトニーに向かって静かに“There's a place for us...”と「Somewhere」を歌い始める。ワンコーラスちょっと進んだあたりで、周りに立っている若者がマリアの歌に少しずつハーモニーをつけ始める。最初は一人。少ししてもう一人、また一人……という具合に、徐々に歌う人間が増えていく。最初に歌い出す人物はエニバディズがいい。次にアニタ。次にベイビー・ジョンか。その場の全員が参加するわけではなく、歌うのは半分くらいの人数でいい。他の人間はただ黙って中央のマリアとトニーを見ている。もちろんシュランクとクラプキは歌わない。チノとアクション(映画版ならアイス)も歌わない方がいい。やがてステージ後方からうっすらと光が射し、“Somehow... Some day... Somewhere...”の静かなリフレインと共に幕が下りていく。

 この終わり方もまたロマンチックすぎるかもしれないが、トニーが死んだ時点で、彼らの多くが“こんなのもうたくさんだ”と心のどこかで思っていることは確かだと思う。その思いを「Somewhere」に託せばいい。同時に、マリアが宿しているだろうトニーの子供が未来を変えてくれる、という希望を観客が漠然と感じられるようにしたい。マリアに後光が射し、彼女に聖母マリアのイメージを与えるような照明を考える(舞台では難しいか。映画なら簡単にできる)。「Somewhere」は「Tonight」に比肩する名曲だと思うが、劇中では十分に活かされていないように私は感じる。これはトニーとマリアだけでなく、この劇に登場する若者全員のための歌であるべきだ。遺体の運搬は、現実の行動として考えると確かにわざとらしい。しかし、「Somewhere」の静かな合唱は、彼らの心情の表現である。元のエンディングに関して私が何より気に喰わないのは、ミュージカル作品でありながら、普通の劇映画と変わらない表現をしてしまっている点である。ミュージカルはその特権を最後まで最大限に行使するべきではないのか。

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映画版で「Tonight」を歌うリチャード・ベイマーとナタリー・ウッド

 今回、舞台版と映画版を見比べて私が確認したことは大きく2つ。
 
1)映画版では若者たちの群像を描くことに比較的重点が置かれているのに対し、元の舞台版は飽くまでトニー&マリアの悲恋を物語の中心に据えていること。舞台版は物語の中心軸にブレがなく、各場面がしっかり連鎖しながら、非常にすっきり分かりやすく纏まっている。主役はやはりトニーとマリアなんだな、と思い知らされた。映画版は展開に淀みがあり、物語を支える各要素が拡散している印象を受ける。チャキリスとタンブリンがカッコよすぎるせいで、主人公トニーが間抜けにしか見えないというのは、やはりどう考えても致命的である。ただ、その分、観る人がそれぞれにお気に入りの場面やキャラを見つけて楽しめる大作らしい作品にはなっていると思う。ビートルズのアルバムに例えると、舞台版は一本しっかり筋が通った『SGT. PEPPER'S』、映画版は、纏まりには欠けるが色々と楽しめる『THE BEATLES』……と言うと映画版の方が面白いことになってしまうが、出来はともかく、特徴としてはそんな感じである。舞台版と見比べることで、映画版の映像表現の素晴らしさも改めて確認できた。

2)舞台版を観て私が最も感動したのが“歌の力”である。『ウエスト・サイド』というとどうしてもダンスに注意が行ってしまうが(もちろんダンスも良かったが)、この作品はやはり楽曲群が圧倒的に素晴らしい。数々の名曲を役者たちの生の歌唱で聴き、私は『ウエスト・サイド』というミュージカル作品の完成度と耐久性の高さを実感した。そして、ライヴ・パフォーマンスというものの素晴らしさ。実際に目の前のステージで役者が生で歌う歌は、本当に驚くほどストレートに心に響いてくる。もちろん、映画版で主要キャストの歌が吹き替えられている点に文句はない。画面内の人物が実際に歌っているように見えて、それで感動的なら何も問題はない(まあ、リチャード・ベイマーやリタ・モレノは吹替っぽい感じがするが……)。それでも、舞台版の表現には、やはり映画がどんなに頑張っても再現できない生々しさがある。歌で表現される登場人物たちの心情は、映画版を遙かに超える説得力があった。ミュージカルという表現が持つ力を改めて強く感じさせられた舞台だった。
 
 というわけで、私は今回の舞台版を観て、知っているようで知らなかった『ウエスト・サイド』の魅力を自分なりに発見することができた。ひとつの版、しかも、1回の公演しか観ていないので、この作品にはまだまだ自分の気付いていない魅力があると思う。機会があれば、他の版、違うキャストの『ウエスト・サイド』も観てみたい。カーテンコールで出演者たちに拍手を送りながら、観に来て本当に良かったと思った。終演後の帰り道、私の頭の中をいつまでも「Tonight」の旋律が駆け巡っていた。


追記('12年8月13日):
 それにしても、今回の『ウエスト・サイド・ストーリー』公演広告の吹きっぷりはすごかった。ヘッドコピーは“ミュージカルは、ここから始まった。”である。これは例えば、“ロックはビートルズから始まった”とか、“フライドチキンはケンタッキーから始まった”とか書くのに等しい(『アベンジャーズ』の“日本よ、これが映画だ。”というコピーもこれに近いものがある)。この喧伝を見て赤面したミュージカル・ファンも少なくないだろう。これについて何か書いている人はいないかと検索したところ、以下のブログ記事を見つけた。

『ウエスト・サイド・ストーリー』公演の奇妙なコピー

 記事の筆者は、表参道駅を飾った広告ポスターの証拠写真も撮っている。そこには更にすごい文言が踊っていた(笑)。この人は今回の『ウエスト・サイド』来日公演の感想も書いている。

東急シアターオーブこけら落としを飾る『ウエスト・サイド・ストーリー』
神が微笑まなかった『ウエスト・サイド・ストーリー』来日版

 安倍寧という'33年生まれ(JBと同い年)のこの文筆家は、私など全く足下にも及ばない筋金入りのミュージカル通である。この人は今回の公演を酷評している。私が感動したトニーの歌に関しては、“自己陶酔気味”、“オペラ歌手気取り”で“劇の進行をぶち壊すことはなはだしい”ということだ。むむ……。そんなに酷かったのか、今回の公演は。私には何も言うことができない。もちろん、識者にそう言われたからと言って、私は別に“感動して損した”とか“観に行って損した”とは思わない。“神が微笑まなかった”公演も、この舞台を初めて観る私には十分に価値あるものだった。




マイケルの最強ショート・フィルム10選【第4位】

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