2017 09123456789101112131415161718192021222324252627282930312017 11

PREV | PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

山口百恵の魔法陣──『夜のヒットスタジオ』を観る (part 1)

magic_circle1.jpg

 奇蹟の6枚組DVDボックス『山口百恵 in 夜のヒットスタジオ』('10年6月30日発売)。この映像集は、歌手・山口百恵の魅力、そして、〈夜のヒットスタジオ〉という番組の重要文化財級の素晴らしさを、改めて私たちに知らしめるものである。

 山口百恵に限らず、'70~80年代の日本の多くのポピュラー歌手たちの決定的な歌唱映像は、ほとんど〈夜のヒットスタジオ〉に残されていると言っても過言ではないと思う。それは、この番組が原則的に歌をフル・コーラスで聴かせる方針を採り、周到に練られた演出、洗練されたカメラや照明によって、歌手と楽曲を最大限に引き立てる音楽本位の番組作りを一貫して行っていたためである。毎週、生放送で作り出される数々のハイレベルなパフォーマンス映像は、ちょっとした音楽ヴィデオ並みの完成度を見せている。

 音楽ヴィデオというアートフォームは、大まかに言うと、歌手やバンドが実際にテレビ番組に出演して歌う手間を省くため、予めパフォーマンスを撮影した代替品を用意するようになったところから発展したものである。初期の作品には、歌手やバンドのパフォーマンスをそのまま映しただけのような単純なものが多かったが(ナック「My Sharona」などはその典型)、それらを専門に放送するケーブル・チャンネル、MTV('81年開局)がアメリカで興隆したことをきっかけに、音楽ヴィデオは、技術的にも芸術的にも一気にレベルを上げていくことになる。MTVによって、音楽は“聴くもの”から、“観るもの”へと変わっていった。音楽の映像時代の到来である。

 日本にはMTVのようなメディアがなかったため、一般的に音楽ヴィデオが制作される機会は少なく、ポピュラー歌手たちのプロモ活動は、MTVの黎明期~興隆期においても、テレビの歌番組に歌手が実際に出演し、同じ曲を何度も繰り返し生で歌うというスタイルが保たれた。そのような日本において、従来の歌番組のライヴ・パフォーマンス要素と、音楽ヴィデオの高度な映像技術を組み合わせた〈夜のヒットスタジオ〉は、映像時代における日本の音楽番組の在り方として、ひとつの理想を示していたと言える。1時間の放送枠内に登場する8組ほどの歌手やグループに対し、それぞれ別個に複雑な演出やカメラ台本を用意するような音楽番組など、世界的にも私は他に見たことがない。これは、音楽ヴィデオがエンターテインメントとして浸透しにくい日本だからこそ発展した、全く独自の音楽番組のスタイルかもしれない。

magic_circle2.jpg
〈夜ヒット〉はフジテレビ最大級の第6スタジオから放送されていた(画像は'75年当時)

 〈夜のヒットスタジオ〉は、毎週、出演者ごとに様々な視覚的アイデアを用意し、生放送で“音楽ヴィデオ”を量産していた。'70年代半ば頃までは、通常のスタジオ・セットで歌手が歌う様子を比較的普通に見せる映像が中心だったが(それでもカメラと照明の質は際立っている)、'70年代後半になると、セットや演出にも徐々に大胆な趣向が凝らされるようになり、その映像はいよいよ音楽ヴィデオのレベルに近づいていく。この番組のパフォーマンス映像は、まさしく音楽ヴィデオのように、その曲を歌う歌手の映像として決定的スタンダードとなり得るようなものばかりである。歌手の側からすれば、きちんとフル・コーラスで歌える上、普通に歌っているだけで勝手に最高のプロモ映像を作ってくれるのだから、こんな素晴らしい番組はなかったと思う。

magic_circle3.jpg
〈夜ヒット〉の無敵のカメラ隊。画面奥に1カメ、手前に2カメ(3カメは撮影中)
カメラがオンになると番号部分のライト(タリーランプ)が赤く点灯する


 山口百恵に関しても、その決定的歌唱映像の多くはこの番組に残されている。「横須賀ストーリー」「イミテイション・ゴールド」「秋桜」「プレイバック Part 2」「絶体絶命」「いい日旅立ち」……これらの有名なシングル曲を歌う百恵を鑑賞したければ、まず最初に〈夜ヒット〉出演映像を観るべきである。そこには、フル・コーラスでじっくり歌の世界を表現する百恵の姿が、的確な演出とカメラによって、この上なく魅力的に捉えられている。山口百恵の場合、それらの視覚的イメージは、その表現において極めて重要な要素である。それは例えば、マイケル・ジャクソン(*)のアーティスト性が、一連のショート・フィルムに代表される視覚的パフォーマンスを抜きにして考えられないのと同じことだ。聴くだけでも十分素晴らしいが、山口百恵は、とにかく観なければ話にならない。〈夜ヒット〉映像を観ないで山口百恵を語ることは、「Thriller」やムーンウォークを観ないでマイケルを語るに等しいと、私はいささか乱暴に言い切ってしまいたい。『山口百恵 in 夜のヒットスタジオ』は、それくらい重要な映像集である。

 今回は、“山口百恵の魔法陣”と題して、実際にいくつか歌唱映像を取り上げながら、山口百恵と〈夜ヒット〉の素晴らしさを、より具体的にプレイバックしていくことにしたい。連載第1回は、'76~77年の放送回の中から4つの歌唱映像を取り上げる。


magic_circle4.jpg
magic_circle5.jpg
magic_circle6.jpg
白い約束('76年1月12日放送)

 '75年12月21日発売の11枚目のシングル曲。それまでの千家和也(作詞)+都倉俊一(作曲)のコンビがここで崩れ、作曲に三木たかしが起用されている。疾走感溢れるリズムと抑制の利いたメロディの対比が新鮮。感傷を持て余しているようなこの時期の百恵を、なかなか上手く引き立てた佳作だと思う。凡庸なバラードで暴発気味な熱唱を聴かせる前作「ささやかな欲望」も面白いが、個人的には、走り出しそうで走り出さない「白い約束」の中途半端さの方に魅力を感じる。

 小生意気なジャリタレ然とした'75年と違い、'76年1月の百恵(高校二年)は、髪が伸びたせいもあり、かなり大人っぽさが増している。DVDでは「ささやかな欲望」('75年9月8日放送)と、この「白い約束」の間にある2回分の放送回がVTR消失のために飛んでいるので、特に変化が唐突だ。この変わり方にはハッとさせられる。後の山口百恵に直結するイメージが、ここで初めて見られると言ってもいいかもしれない。

 百恵の顔のアップから全景まで引いてタイトルを入れた後、歌い出し直前のアクセント(“ダララ! ダララ!”)に合わせてズームインする芸の細かさが、さすが〈夜ヒット〉のカメラ。Aメロ突入と同時に、百恵のバストショットを映す左カメラに切り替わり、その合間に正面カメラによるアウトフォーカスの全景ショット(バンドの前に百恵がポツンと佇む)がディゾルヴで挿入される。Aメロの寂しげな雰囲気にマッチした画作りだ。そして、Bメロ(“人の~”)に入ると、滑走する伸びやかなメロディに合わせて、カメラが左から右へ滑らかに回り込んでいく。サビ(“ねえ~”)で右から左へ戻った後、軽快に指揮をするダン池田ごしに百恵を捉える右真横のショット(熱い!)に切り替わり、最後はサビの盛り上がりと共に、そのまま百恵を捉えながら感動的なスピード感で一気に左へと回り込んでいく。この最後の移動ショットの加速度の素晴らしさ(恐らく、関法之という人が操る2カメのショット)。ここまでの1コーラス分の映像だけでもぶっ飛ばされる。

 間奏に入ると、百恵はバンドスタンド前の円形スペースからスタジオ中央に移動する。間奏で歌手が立ち位置を変え、背景に変化をつけるのは当時の〈夜ヒット〉の常套演出である。ドレスを風になびかせながら歩く百恵の様子が、美しいアウトフォーカスのフルショットで捉えられる(ここで初めて3カメに切り替わっていると思われる)。同時に、歌詞に登場する“雪”をイメージした紙吹雪が舞う。間奏の際、歌手に関する豆知識がテロップで出されるのも、この頃の〈夜ヒット〉のお約束。ここでは“得意な料理はおでんとかみそ汁 ダシのとり方に自信あり”という、いかにも庶民的アイドルらしいナイスな情報が出る(“とか”がいい)。

 後半の2コーラス目では、背景が変わった以外に、映像に特筆すべき変化がある。百恵の左の前髪が顔にかかっているのである。間奏の際に当てられた風のせいで、髪が乱れたのだ。些細な変化ではあるが、その効果は絶大である。髪が少し乱れただけで百恵の表情の翳りが強調され、1コーラス目とはまた違った迫力が映像に生まれている。曲のクライマックスでカメラは、その表情が最も映える右方向から百恵の顔をアップで捉える。そこから胸元の花へカメラを振る締め括り方もスマートだ。

 背景は〈夜ヒット〉の普通のセットである。演出らしい演出は、間奏での立ち位置の移動と、風(紙吹雪)。あとは、カメラの切れである。たったそれだけで、実に変化に富んだ劇的な歌唱映像を作り出している。この映像を観ると、そこそこにいい曲でしかないはずの「白い約束」が、とんでもない名曲のように思えてくる。


magic_circle7.jpg
magic_circle8.jpg
横須賀ストーリー('76年6月21日放送)

 「横須賀ストーリー」での番組初出演。歌手・山口百恵を永遠に変えた革命的シングルは、'76年6月21日、まさにこの放送日に発売された。発売前に他のテレビ番組で歌っている可能性もあるが、少なくとも現存する中では、これが恐らく百恵の最古の「横須賀ストーリー」歌唱映像と思われる。

 '76年夏の「横須賀ストーリー」全3回のパフォーマンス映像は、基本的にはどれも似ている。百恵は同じ白い衣裳で登場し、2番(と間奏の半分)を切り詰めた短縮版で歌を披露する。カメラワークは、いずれも当時の〈夜ヒット〉の標準レベル。細かい違いを挙げると、1回目と3回目の出演では、百恵の髪やスカートがそよ風になびくという演出があり、2回目と3回目の出演では、間奏での立ち位置の移動がある。映像的には、そよ風と立ち位置移動の両方がある3回目が最も面白いのだが(3回目には、横須賀の若者たちがバックで踊るという演出もある)、ここで初回のパフォーマンスを取り上げるのは、番組オケのニューブリードの演奏があまりにも素晴らしいからである。

 この時のニューブリードは、オリジナルよりもグッとテンポを落とし、非常に腰の据わったタイトな演奏を聴かせる。ヘヴィさを増したイントロには、横須賀湾の沖から津波が襲ってくるような迫力さえ感じられる。特筆すべきは、ピアノ。Aメロでジャジーなアドリブを弾きまくり、曲に深い陰影をつけている。アイドル歌手の伴奏でそこまで弾くか、というくらい鋭い演奏をしているのだ。このピアニストは他の放送回の「横須賀ストーリー」でもさりげなく好演しているので、要注意である。これぞまさしくプロフェッショナルの仕事だ。

 百恵の歌唱に関して言えば、'76年夏の「横須賀ストーリー」全3回の中では、最後の3回目が最も充実している。一方、この初回の歌唱には、まだあまり歌い込んでいないがゆえの素朴さがあって面白い。やや遅めのテンポに乗って、一節一節を丁寧に粘り強く歌う。百恵自身、まるで新たな歌の世界に引っ張られているようでもある。歌われている心情そのものは、前作「愛に走って」(作詞:千家和也、作曲:三木たかし。彼氏の気持ちが掴めない少女の苦悶)と同じなのだが、“これっきり これっきり もうこれっきりですか”の単刀直入さは、やはり革命的である。「愛に走って」で、“うまい言葉が見つからなくて”と濁されていた少女の心情を、実際、ずばり言葉にしてしまったのが「横須賀ストーリー」だった(うまい言葉を見つけてこそ作詞家である)。
 '76年6月21日の「横須賀ストーリー」には、そうした百恵のブレイクスルーの瞬間の生々しさが漂っている。実は、この放送回だけ画質がやや悪いのだが、全く問題はない。後述する'77年10月3日の映像とあわせ、山口百恵の最大のターニング・ポイントを見事に捉えた素晴らしい記録である。

 ちなみに、この6月21日の放送回には、“花の高三トリオ”の他の2人、森昌子と桜田淳子も出演している(ついでに同学年の岩崎宏美もいる)。「横須賀ストーリー」の間、彼女たちは待機場所の前で踊る井上順に気を取られ、百恵に決定的なリードを奪われたことに全く気付いていない様子である。無邪気にはしゃぐ友達を余所に、一人で横須賀の海を見つめる百恵。ここで百恵は、それまでと全く異なる地平に立った。


magic_circle9.jpg
magic_circle10.jpg
パールカラーにゆれて('76年12月20日放送)

 「横須賀ストーリー」の次のシングル('76年9月21日発売)。新たなエース、阿木燿子の登場で千家和也は“これっきり”かと思いきや、ここでまさかの再登板。「横須賀ストーリー」にあやかり、“横須賀”→“港”、“街の灯り”→“パールカラーの街あかり”という連想で手堅くまとめている。「横須賀ストーリー」+「ブルー・ライト・ヨコハマ」というのがこの曲の正体に違いないだろう。引き続きタイトルにカタカナ言葉(外来語)が織り込まれている点にも注意したい(百恵のシングル作品名にカタカナが使われたのは「横須賀ストーリー」が最初)。作曲は「およげ!たいやきくん」の佐瀬寿一。「横須賀ストーリー」の路線を引き継ぎつつ、別ライターを起用することで、二味ほど違う作品になっているのがポイント。このあたりが酒井政利のプロデュースの巧さだろう。「横須賀ストーリー」の二番煎じとしては最高の出来だと思う。

 百恵はこの曲で〈夜ヒット〉に4回出演している(と思われる)が、映像が残っているのは、'76年9月20日の初回と、12月20日の最終回の2回分のみ。映像的に面白いのは、圧倒的に後者である。

magic_circle11.jpg
「パールカラーにゆれて」──'76年9月20日(左)と12月20日(右)

 12月20日の「パールカラーにゆれて」では、すべてのカメラにフィルターが取り付けられ、画面全体に霧がかかったような幻想的なソフトフォーカス映像が作り出されている。この淡く滲んだ映像が、パールピンクの照明とも相まって、まさに“パールカラーの街あかり”をイメージさせる。中でも目を引くのは、百恵の左肩の白い花。このハイライト部分が、黒い衣裳との対比とフィルター効果によって強く光を滲ませ、画面内で実に綺麗に映えている。上の画像で、9月20日(フィルターなし)と12月20日(フィルターあり)の映像を見比べてもらいたい。どちらの百恵が魅力的に見えるだろうか。こういう演出をさりげなくやるのが、〈夜のヒットスタジオ〉という番組なのである(このフィルター使いは〈夜ヒット〉の得意技のひとつである。次回、これについて詳述する)。

 また、ニューブリードの演奏に関しても、12月20日の方が段違いに良い。テンポやミックスも違うが、特筆すべきは、編曲がより音色豊かな洗練されたものに変わっていること。9月20日の回では聴かれないBメロ部分でのホーンのまろやかなロングトーン(歌メロの合間に入る“チャッ、チャッ”がホーンからギターに変更されてもいる)、サビ終わりの2拍目(“港に”と“着きたい”の間)に入るギターの“ポロ~ン”あたりが特に耳を引く。単調だった間奏のホーン・アンサンブルもスリリングになっているし、エンディングも全く違う。AメロとBメロの間のブレイクに入るハイハットの刻みも熱くなった。細かく書き出すと切りがないが、とにかく、全てにおいて12月20日のサウンドの方が良いのだ。サビ部分の女性コーラスは9月20日と一緒だが、これも最高。百恵の歌唱だけでなく、是非、バックの演奏にも耳を傾けて欲しい。聴きどころ満載である。


magic_circle12.jpg
magic_circle13.jpg
横須賀ストーリー('77年10月3日放送)

 この日の〈夜ヒット〉は10周年突入記念特番。人気歌手が多数集まり、過去のヒット曲や特別共演などで魅せる2時間の変則的内容だった。'77年秋のこの時、百恵の新曲は「秋桜」だったが、この特番では前年のヒット「横須賀ストーリー」を歌っている。これが、すごい。

 '77年春、百恵は高校を卒業し、芸能人としていよいよフル稼働の状態に入った。同時に、三人娘(花の高三トリオ)も解散。百恵は少女アイドル以降の地盤固めを着実に進めていた。シングルでは、「夢先案内人」(4月1日発売)、「イミテイション・ゴールド」(7月1日発売)、「秋桜」(10月1日発売)と着実に成功作をものにし、作風の大きく異なる作品を歌い分けて表現の幅を広げた。アルバムでは、私小説風のコンセプト作『百恵白書』(5月21日発売。全曲、阿木+宇崎・作)で歌手としての方向性を明確に定め、続く『GOLDEN FLIGHT』(8月21日発売)ではロンドン録音を敢行し、ロックにも挑戦した。この'77年秋の「横須賀ストーリー」からは、それらの鍛錬を積んできた百恵の大きな成長と自信が伝わってくる。

 演奏は、'76年の出演時と同様、2番を省略した短縮版(4小節に切り詰められていた間奏は、ここではオリジナル通り8小節ある)。百恵の歌唱は'76年とは大きく異なり、声質が太くなり、ドスが利いて格段にパワーを増している。気合いの入り方も半端でない。この時点で既に“馬鹿にしないでよ!”とか“なめたらいかんぜよ!”的な啖呵(後者は百恵の台詞ではないが)を切れそうな迫力がある。

 ドスを利かせて力で強く押すような歌唱法を百恵が確立するのは、'78年5月発表の「プレイバック Part 2」である。同年末に発表される代表曲「いい日旅立ち」や「曼珠沙華」の歌唱にしても、基本的にはその応用の上に成り立っている。「プレイバック Part 2」以降、'80年の引退まで、百恵の歌唱法に大きな変化は見られない。つまり、歌手・山口百恵を完成させたのは「プレイバック Part 2」ということになるのだが、この'77年10月3日の歌唱を聴くと、実はそうではないことが分かる。百恵を歌手として完成に導いた決定的な曲は、やはり「横須賀ストーリー」なのである。

 '76年の「横須賀ストーリー」における潤んだような百恵の歌唱には、いかにも17歳の少女(歌の主人公)らしい哀切さがあって、やはり格別である。百恵は主人公に同化し、歌の中でごく自然に横須賀に帰っているように感じられる。ところが、'77年10月3日の「横須賀ストーリー」で、百恵は横須賀にいない。横須賀は、既に遠い場所になってしまっている。声質の変化以上に、歌い方の変化がそのように感じさせるのだ。

 この'77年10月3日の放送回で、百恵は「横須賀ストーリー」の歌唱前のトークで、横須賀を自分の“ふるさと”だと明言している。“ふるさと”というのは意外に重い言葉で、百恵のこの発言は妙に印象的である。「横須賀ストーリー」の歌唱が大きく変わった原因は、横須賀という場所に対する百恵のこの意識の持ち方にあるように思われる。推測に過ぎないが、百恵は「横須賀ストーリー」という曲を歌い込む過程で、初めて横須賀を自分の“ふるさと”として捉えるようになったのではないだろうか(それまでは、単に“前に住んでた場所”、あるいは、“自分が育った場所”くらいにしか思っていなかったのではないか)。そして、そこで過ごした小学二年から中学二年までの6年間のことを深く考えるようになった。その意識の変化が、恐らく、彼女の歌唱を変えた。

 自叙伝『蒼い時』(1980)の序章で、百恵は横須賀について次のように書いている。
 
「私は、今、あの街へ帰りたい。
 今でなくとも、いつかあの街で過ごしたい。
 何より、あの街で暮らしていた六年間の私が一番好きだった。
 自由だった。
 正直だった。
 無理に突っ張ろうともせず、突っ張れもしなかった。必要がなかったのかもしれない。
 それなのに、今の私は、何かにつけて突っ張ろうとする。突っ張ろうとすれば、あまりにも容易に突っ張ってしまえる私が、今は存在している。
 自分の意識の中での私自身は、あの街にいる。あの坂道を駆け、海を見つめ、あの街角を歩いている。
 私の原点は、あの街──横須賀」

 ドスの利いた力強い歌唱は、“横須賀”を自分のもとに手繰り寄せようとする強い意志の力から生まれる。しかし、ふるさとは遠い。あまりにも、遠い。帰ろうとしても決して帰れないのが、“ふるさと”という場所である(それは必ずしも地理的な場所を指すとは限らない)。だから、百恵の歌は悲しくなる。そして、しばしば苛立ちを伴う。百恵の歌の悲しみは、帰る場所を失った者の悲しみではないか。その苛立ちは、覆水を盆に返そうとする者の苛立ちではないのか。“ふるさとは遠きにありて思ふもの”──室生犀星の有名な詩は、こう続く──“そして悲しくうたふもの”。

 力強く、同時に、深い悲しみを湛えた百恵の歌。「プレイバック Part 2」「絶体絶命」「いい日旅立ち」「曼珠沙華」……これらの作品を歌う素地は、この'77年秋の「横須賀ストーリー」で既に出来上がっている。「横須賀ストーリー」は、少女アイドル、山口百恵のイメージを変えただけではない。この歌によって、百恵は精神的に初めて横須賀を後にし、少女から娘(青年)へと変わったのだと思う(そして、彼女は大人になる前に──あるいは、大人になると同時に──引退してしまった。大人っぽい歌は歌ったが、山口百恵のキャリアには、結局、少女期と青年期のふたつしかない)。

 映像的に何か特別な趣向が凝らされているわけではない。セットも照明もカメラワークも〈夜ヒット〉のごく標準的なものだ。しかし、DVDに収録されているすべての百恵の歌唱映像の中で、私はこの'77年10月3日の「横須賀ストーリー」を最大のハイライトとして挙げたい。ここで歌っている百恵は、まるで研がれたばかりの剃刀のようだ。興福寺の阿修羅のような百恵の面持ちを見ていると、私はなぜだか涙が溢れてくる。山口百恵がどんな歌手か知りたいなら、この映像を観ればいい。これこそ最高の山口百恵だと私は思う。

「六年間私が暮らした街、横須賀は、決して歌の舞台にはならないだろうと、心のどこかで思っていた。
 あの街はいつも私の心の故郷(ふるさと)であり、温かで幼い想い出に満ちているだけの街だった。
 それが、恋をする女の舞台になった。
 恋のせつなさを静かに見すえている女(ヒロイン)は、私。
 “あなた”は横顔のシルエットで、私のとなりに並んでいた。
 私は彼を見つめていた。
 彼は、私を見ない。
 記憶の中の横須賀の街の風景がダブって、私はあの街で、大人の恋を味わったという錯覚に陥った。
 横須賀という街が、あの日以来私の中で、それまでと違った輝きを放ち出した。
 一篇の詩で、故郷のイメージは、ドラマチックでセクシーな香りを漂わせはじめた。
 私自身の歌というものに、初めて出逢えたのだと実感した」
 
  1985年11月 三浦百恵
  (阿木燿子・著『プレイバック PART III』/1985)


(*)マイケル・ジャクソンのキャリアに準えると、'76年の山口百恵は『DESTINY』期、'77年は『OFF THE WALL』期に当たる。『THRILLER』の大爆発がやって来るのは'78年(視覚演出もここから盛り上がる)。続く'79年を『BAD』期、'80年を『DANGEROUS』期と捉えれば、百恵初心者にも何となく大まかな流れが掴めるのではないか。
 無理やり楽曲に当てはめると、'76年6月「横須賀ストーリー」は「Shake Your Body」(「Billie Jean」にも相当する)、'77年4月「夢先案内人」は「Rock With You」、'77年7月「イミテイション・ゴールド」は「Don't Stop 'Til You Get Enough」、'77年10月「秋桜」は「She's Out Of My Life」、'78年2月「乙女座宮」は「Can You Feel It」(同曲収録アルバム『COSMOS(宇宙)』は『TRIUMPH』)、'78年5月「プレイバック Part 2」は「Thriller」、'78年8月「絶体絶命」は「Beat It」(詞の内容も似てなくもない)、そして、'78年11月「いい日旅立ち」で「We Are The World」という感じだろうか(谷村新司はライオネル・リッチーか?)。
 '79年の百恵は、『THRILLER』期の成功を踏まえつつ新たな展開を模索するのだが、結局、失速の印象が否めない『BAD』な時期(それでも十分、横綱相撲)。“引退”という新たなモチベーションで再点火する'80年は、テディ・ライリーを迎えて一念発起の『DANGEROUS』な時期。要するに、マイケル・ジャクソンのキャリア15年分を、山口百恵はたった5年で駆け抜けているのである。百恵の変容のスピードはそれくらい速い。マイケルのキャリアに照らしてみると、やはり、引退のタイミングは完璧だったと改めて思う。

※この記事のアップと同時に、“夜のヒットスタジオ──特集サヨナラ山口百恵 (part 2)”、及び、“山口百恵 夜のヒットスタジオ全出演記録 1973-80”に、'88年出版の書籍『芳村真理の夜のヒットスタジオDELUXE』に関する追記を加えた。興味のある方はどうぞ。



山口百恵の魔法陣──『夜のヒットスタジオ』を観る (part 1½)

山口百恵 関連記事◆目録

| Momoe Yamaguchi | 01:29 | TOP↑

PREV | PAGE-SELECT | NEXT