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The Incomparable LENA HORNE



 彼女が30歳の時、デューク・エリントンはその美しさを“満開のバラの花”と喩えた。50歳になってもなお若々しい彼女を見て、エリントンはこう言ったという──“バラのつぼみのようだ”。(*1)


 '10年5月9日、ニューヨーク市内の病院でリナ・ホーンが亡くなった。享年92歳。
 
 現在、テレビや映画や舞台で当たり前のように活躍するアフリカ系アメリカ人女性たち。あるいは、ショウ・ビジネス界に限らず、社会全般で活躍するアフリカ系アメリカ人女性たち。彼女たちの全員がこの人の恩恵を受けていると言っても過言ではない。人種差別の酷かった20世紀のアメリカで、黒人女性として初の国民的スターとなり、後続のすべての黒人女性たちに大きく道を切り開いた偉大な先達──それがリナ・ホーンである。


DAYDREAM IN HOLLYWOOD──ハリウッドの白日夢

 '17年、ニューヨーク、ブルックリン生まれ。16歳の時にハーレムのコットン・クラブに雇われ、コーラス・ガールとして下積みを経験した後、低予算の黒人映画『The Duke Is Tops』(1938)に主演して銀幕デビュー。やがてハリウッド最大手のMGMにその美貌を買われ、『Panama Hattie』(1942)に端役出演してメジャーへ。以後、『キャビン・イン・ザ・スカイ(Cabin In The Sky)』(1943)、『ストーミー・ウェザー(Stormy Weather)』(1943/これだけ20世紀フォックス)、『ジーグフェルド・フォリーズ(Ziegfeld Follies)』(1945)、『雲流るるはてに(Till The Clouds Roll By)』(1945)、『ワーズ&ミュージック(Words And Music)』(1948)等々、'40年代に多くのMGMミュージカルに出演して人気を博した。彼女は、ハリウッド大手が最初に長期契約を結んだ黒人女優でもあった。

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『Panama Hattie』(1942)──「Just One Of Those Things」「The Sping」の2曲で登場
後者ではダンス・アクトのベリー兄弟らと最高の共演を見せる


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『I Dood It』(1943)──ドラマチックなナンバー「Jericho」。ヘイゼル・スコットらと共演
スコットが披露する「Taking A Chance On Love」のピアノ演奏も猛烈に素晴らしい


 “女優”と言っても、ホーンの役どころは、基本的にはスペシャルティの歌手役に過ぎなかった。“スペシャルティ”というのは、劇中に数分間だけ登場して歌や踊りを披露する芸人の役割を言う。当時、ハリウッドで黒人に与えられるのは、召使い、軍人、労働者(靴磨き、給仕、駅員など)といった役の他には、そうしたスペシャルティの芸人役くらいしかなかったのである。彼らのパフォーマンスは、人種差別が特に酷いアメリカ南部での上映時に容易にカットできるよう、物語の本筋に直接関係ない形で劇中に組み込まれていた(白人主人公たちが訪れるナイトクラブ場面などでパフォーマンスを披露することが多い)。
 当時の黒人芸人たちは、しかしながら、その限られた出演枠の中で力を尽くし、時に主役の白人役者たちを喰うくらいの素晴らしいパフォーマンスを見せた。

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『Thousands Cheer』(1943)──F・ウォーラーの「Honeysuckle Rose」を歌う。ゴージャス!

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『雲流るるはてに』(1946)──「Can't Help Lovin' Dat Man」「Why Was I Born」の2曲で登場(*2)

 一連のMGM作品におけるリナ・ホーンの出演場面は、いま観ても鮮烈である。艶やかな歌声も魅力だが、とにかく圧倒的なのは、その美貌である。彼女は白人男女の軽い恋愛コメディの合間に登場し、満面の笑みを浮かべて歌を披露する。その姿はまさに大輪のバラのようで、彼女が画面に登場するだけで、ただただ見とれてしまう。もちろん、歌が終わればすぐに劇中から消えてしまうのだが、ハリウッド映画に登場する黒人女性と言えば、ハティ・マクダニエル(『ショウ・ボート』『風と共に去りぬ』)のようなメイド役が常識だった当時、ホーンのような、人々にとって羨望の対象となるようなゴージャスでグラマラスな黒人女性像はとにかく画期的だった。

 ホーンは女優としてまともに演技ができることを望んでいたが、当時のハリウッド映画では、同一作品内で黒人が白人と同等に(役の重要性、また、役の社会的立場においても)扱われることは、100%あり得ないことだった。彼女の美貌では、メイド役も下層労働者の役もできない。白人役者と恋に落ちるヒロイン役など、もちろん以ての外である。ハリウッドの白人映画の中で、彼女の役は必然的にスペシャルティの歌手役に限られた。

 例外は、'43年の『キャビン・イン・ザ・スカイ』と『ストーミー・ウェザー』。いずれも当時のハリウッドでは異例中の異例と言えるオール黒人キャスト映画。白人と絡まないこの2作品でのみ、彼女はまともに演技する機会を与えられた。

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『キャビン・イン・ザ・スカイ』(1943)──E・アンダーソン演じる主人公を誘惑

 エセル・ウォーターズ、エディ・アンダーソン主演、ヴィンセント・ミネリ初監督作の『キャビン・イン・ザ・スカイ』では、善良な家庭持ちのアンダーソンを誘惑するヴァンプ役で助演。当時のハリウッド映画において、黒人役者はとにかく観客にとって性的欲望の対象になってはならない。ここでホーンは確かにセクシーではあるが、オール黒人キャスト作品においても、飽くまで堕落を招く悪魔的存在として扱われるところに時代性がよく顕れている(これは、ホーンの登場を先駆けた『ハレルヤ』のニーナ・メイ・マッキニー、あるいは、ホーンの後を受けた『カルメン』のドロシー・ダンドリッジの役柄にも言える)。ルイ・アームストロング、デューク・エリントン、バック&バブルズ、ビル・ベイリー(元祖ムーンウォーク男)といった芸人陣の出演も見所。ほのぼのとしたファンタジー調の面白い作品だ。

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『ストーミー・ウェザー』(1943)──黒人ミュージカル映画の最高傑作で堂々のヒロイン役

 『ストーミー・ウェザー』は、ホーンが20世紀フォックスに貸し出され、タップ・ダンサーのビル・ロビンソンと共に主演した作品。ロビンソンは、'30年代後半に白人子役のシャーリー・テンプルと共演して人気を博した当時の黒人の大スター(それでも召使い役なのだが)。ホーンは、ロビンソンとロマンスを繰り広げる美人歌手を演じる。ファッツ・ウォーラー、キャブ・キャロウェイ、ニコラス兄弟、キャサリン・ダナムらの客演陣も素晴らしく、ショウビズ界を舞台にしている分、『キャビン・イン・ザ・スカイ』よりずっと華やかな雰囲気があるのも魅力だ。当時の黒人芸人たちの至芸がたっぷり堪能できる問答無用の大傑作である。

 これら2作でホーンは別に大した演技をしているわけではないのだが、彼女の放つ輝きにはとにかく目を見張るものがある。特に、ハリウッド時代の彼女の魅力が凝縮されたような『ストーミー・ウェザー』は、同名主題歌とあわせて、彼女の決定的な代表作と呼ぶに相応しい。

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『ストーミー・ウェザー』──リナ・ホーン、ビル・ロビンソン、キャブ・キャロウェイ、ニコラス兄弟がすべて同じ画面内に収まる最高のラスト場面。遂に全員がこの世からいなくなってしまった

※ハリウッド時代のホーンの出演映画は、残念ながら半分程度しか日本公開されておらず、'10年現在まで国内DVD化されているものに限ると、『キャビン・イン・ザ・スカイ』『ジーグフェルド・フォリーズ』『雲流るるはてに』くらいしかないという惨状である。当時、多くの人々を魅了した彼女の麗姿が、一部のミュージカル映画ファンにしか知られることがないのは本当に残念なことだ(何度も書いている気がするが、『ストーミー・ウェザー』くらいは頼むから日本版DVDを出してもらいたい。少しでも興味がある人には、美麗画質、英語字幕も付いたリージョン1の北米版を購入することをお勧めする。物語が単純な上、見ものは各出演者のパフォーマンス場面なので、英語が解らなくても十分に楽しめる)。


I'M ME, BLACK ME──私は私、黒人の私

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 ホーンをスターの座に就かせたハリウッド。しかしながら、黒人の彼女にとって、そこは決して“家(ホーム)”と呼べるような場所ではなかった。ヘアメイク係たちは彼女の髪をいじることを拒んだ。撮影の合間にスタジオの食堂へ行くと、白人ウェイターにサービスを断られた。黒人であることを理由に、レストランへの入店や、住居の賃貸を拒否されることも当たり前だった。
 また、彼女は、ハリウッドが自分に要求する白人好みの作為的な黒人像に強い抵抗を感じていた。彼女は黒人にしては色が薄かったため(両親共に白人の血を引いていたと言われる)、わざわざ実際よりも肌を濃くする屈辱的なメイクまで施されていた。黒人の中にはそうした彼女の成功を妬んで非難する者もいた。黒人でも白人でもないような自分のアイデンティティの曖昧さに、ホーンは苦しめられた。

「私はハリウッドで完全に孤立していました。みんな黒人のことを知らないから、おかしな経験をすることもありました。スタジオには、黒人と言えば私と靴磨きの少年の2人しかいないというのが日常でした。
 私は、白人に受け入れられるような黒人ということで際立っていました。私は彼ら白人の白日夢だったのです。私の認められ方はひどいものでした。なぜなら、自分のやったことの素晴らしさによって認められたわけではないからです。私が認められたのは、ルックスのせいでした」(1989, I Dream A World: Portraits of Black Women Who Changed America)

「私はある種のシンボルになっていた。私がMGMで仕事をしていた'43年当時、会社は、私を通じて“人間は皆似ている”ということを証明するのだと言っていたわ。彼らは私にあれこれ化粧して、然るべきルックスを決めた。彼らが理想とするニグロのルックスを作り上げたのよ」(July 1968, Ebony)

 ハリウッドとホーンの関係は次第に悪化していく。
 第二次大戦中、慰問公演で国内の基地を廻った際(当時、ホーンは黒人兵たちのピンナップ・ガールだった)、黒人兵が会場から閉め出されていたり、白人兵よりも後ろの席に追いやられているのを見て、彼女は強く抗議した。MGMはホーンのそうした振る舞いを快く思わなかった。これに次いで、ブロードウェイ・ミュージカル『St. Louis Woman』(1946/ニコラス兄弟、パール・ベイリーら出演)への出演をMGMから要求された時、黒人の描かれ方が納得いかないという理由でホーンが出演を拒否したことが、両者の溝を決定的なものにした。結果、'40年代後半にはMGMでの仕事が劇的に減ることになる──“要求を断ると、彼らは私を一時解雇にしました。それでMGMとは終わったのです”(1996, Lena Horne at Metro-Goldwyn-Mayer, Foreword by Lena Horne)。

 '40年代末からハリウッドで赤狩りが始まると、ホーンは、ソ連を支持してブラックリストに載っていた黒人俳優ポール・ロブソン(『ショウ・ボート』)と親交があったことで共産主義者と見なされ、更に仕事が減った。また、彼女は'47年12月、MGMの白人音楽監督レニー・ヘイトンとパリで秘密裏に結婚していた。2人の婚姻は'50年になってから公表されるが、異人種間の結婚は恰好のスキャンダルのネタとなり、ハリウッドでの風当たりはますます強くなった。

 MGMを去ってからの'50年代は、アメリカとヨーロッパを行き来しながら、高級ナイトクラブでの歌手活動に力を入れた。この時代においても、シングル「Love Me Or Leave Me」(1955)や、ライヴ盤『LENA HORNE AT THE WALDORF ASTORIA』(1957)のヒットを出し、また、'57年に主演したブロードウェイ・ミュージカル『Jamaica』でトニー賞にノミネートされるなどして成功を収める。

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'63年、ワシントン大行進でのリナ・ホーン

 しかし、アメリカで人種差別は依然として続いていた。
 '60年、ビバリーヒルズのレストランでホーンが食事をしていたところ、席を待っていた酔っぱらいの白人男性客が、彼女のことを“ニガーのくせに”と罵った。ホーンはその男性客に向かって灰皿やグラスを投げつけた。彼女は積極的に公民権運動に関わり、'63年8月のワシントン大行進では、NAACPや黒人女性団体を代表して演説も行った。

 その後もテレビやステージを中心に活躍を続け、'78年にはダイアナ・ロス主演、シドニー・ルメット(*3)監督の映画『ウィズ(The Wiz)』に“良い魔女グリンダ”の役で出演。そこで歌った「If You Believe」は、彼女の後年の代表曲にもなった。

 60歳を過ぎ、'80年には一度引退を表明するも、翌'81年にはブロードウェイで『Lena Horne: The Lady and Her Music』と題し、自らのキャリアを総括する大々的なワンウーマン・ショウを行う。この舞台は大成功を収め、ブロードウェイで'81年5月から333公演を行った後、'84年までカナダやヨーロッパを含むツアー公演も行われた。クインシー・ジョーンズがプロデュースしたショウのライヴ盤は、'82年のグラミー賞で最優秀ミュージカル・アルバム賞、最優秀女性ポップ・ヴォーカル賞を獲得(後者では、オリヴィア・ニュートン=ジョン、シーナ・イーストン、キム・カーンズらを押し退けての受賞)。式場では「If You Believe」を歌って大喝采を浴びた。このブロードウェイ・ショウは、ホーンの後年のキャリアにおける最大のハイライトとなった。

 '89年にはグラミー功労賞を受賞。70歳を過ぎた'90年代もBlue Noteと契約を交わして歌手活動を続け、ライヴ盤『AN EVENING WITH LENA HORNE』(1995)では、再びグラミーで最優秀ジャズ・ヴォーカル賞を獲得した。'06年に'90年代の未発表録音を集めた『SEASONS OF A LIFE』が出ているが、遺作となったのは'98年、彼女が80歳の時のアルバム。それはシンプルに“BEING MYSELF(自分らしく)”と題されていた。

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『ザッツ・エンタテインメント PART3』でMGM時代を振り返るリナ・ホーン

 '94年に公開されたMGMのアンソロジー映画第三弾『ザッツ・エンタテインメント PART3(That's Entertainment! III)』には、70代後半になったリナ・ホーンが進行役の一人として登場する。“ここには色々な思い出があります。いい思い出、悪い思い出……”──昔のままの録音スタジオで、淡々と穏やかな口調で過去を回想するホーンの様子は、かつてのMGMとの確執や、彼女の経てきた険しい道のりを思うと、何とも感動的である。すっきりとした、本当にいい顔をしている。人種差別が激しかった'40年代、ハリウッドで白人向けの黒人像を演じることで生じた彼女の苦悩は、そこからはもう感じられない。

 後年のホーンは、ハリウッド時代とは全く質の異なる力強い歌唱を聴かせるようになった。そして、その表情は毅然として、とても自信に満ちているように見える。
 彼女は公民権運動を経験することで、そうした“揺るぎない自分”というものを勝ち取ったのかもしれない。'68年のEbony誌において、“あなたが公民権運動に携わってきても、尚、多くの人々はあなたが黒人と同化していないように感じます。なぜでしょう?”というインタヴュアーの問いに対し、彼女はこんなふうに答えている。

「なぜかしらね。……今、私には自分のことがかつてないほど分かる。私には自分が誰か分かる。どう説明していいか分からないんだけど。“私は黒人女性です”だなんて当たり前すぎて言うまでもない。それはまた色々と違うことを意味するし。それに、私は常に黒人だったんだから。でも、今、私は自由。黒人であることだって自由に享受できる。
 私は何かの代名詞になる必要なんかない。私は私でいい。私は自分をリナ・ホーンとしてだけでなく、黒人女リナ・ホーンとして誇りに思う。それが私だもの。私は他の誰でもない。私はハリウッドが仕立てようとした白人女性のイミテーションでもない。自分がどう見えようと構わない。私はイミテーションじゃない。私は私。黒人の私」(July 1968, Ebony)


(*1) Ebony誌、'68年7月号(リナ・ホーン表紙)掲載のインタヴュー記事(“Lena at 51”)の序文より。川本三郎著『忘れられた女神たち』(1986/筑摩書房)収録のリナ・ホーン伝の冒頭でも、このデューク・エリントンの言葉が引用されている。彼女をひとことで形容するには、やはり、美しく、同時にトゲを秘めたバラの花が最もしっくりくるように思う。

(*2) 作曲家ジェローム・カーンの伝記映画『雲流るるはてに』(1946)の冒頭に登場する『ショウ・ボート』(白人と混血児の婚姻が描かれた作品)の舞台場面の中で、ホーンは白人と黒人の混血児ジュリーに扮して「Can't Help Lovin' Dat Man」を歌った。彼女に打ってつけの役だったが、5年後、MGMによって『ショウ・ボート』(1951)が本格的に映画化された際、同役はエヴァ・ガードナーに回された(ホーンはジュリー役には端から考慮されなかった。よく言われるように、役を降ろされたわけではない)。白人と黒人の恋愛を描いた物語においてさえ、実際に黒人がキャスティングされることはないのである。MGMとホーンの関係が既に破綻していたこともあるだろうが、いずれにせよ、当時のハリウッドの保守性をよく示す交代劇である。

(*3) シドニー・ルメットはリナ・ホーンの娘ゲイル・ジョーンズ('37年生まれ。ホーンの最初の夫、ルイ・ジョーンズとの子供)と'63年から'78年まで夫婦関係にあり、ホーンと7つ違いにもかかわらず、『ウィズ』制作時は彼女の義理の息子だった。



THE INCOMPARABLE LENA HORNE

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 リナ・ホーンについては、ずっと前から書こうと思っていた。当ブログの“Diva Legends”というカテゴリーでは、今までにドロシー・ダンドリッジとニーナ・メイ・マッキニーを取り上げている。次はリナ・ホーンだ、と思いつつ、そのキャリアの長さとあまりの偉大さに恐れをなし、なかなか手をつけられないでいた。ミュージカル映画が好きな私のような人間にとって、リナ・ホーンというのは、とにかくとんでもない絶対的な大スターである。今回はひどく中途半端な記事になってしまったが、また機会を改めて、せめてハリウッド時代の出演作くらいはきちんと紹介できたらと思っている。

 彼女の生涯は、いずれ間違いなく映画化される。実は、アリシア・キーズがホーン役を演じる伝記映画の製作の話が'07年12月に報じられたことがあったのだが(同年11月にアリシアが来日した時も、本人によって出演予定が暗に語られていた)、結局、実現しないまま現在に至っている。当初はアリシアでも面白いような気がしたが、ホーン本人が持つ尊厳や品位、圧倒的なスケール感と比較してしまうと、結局、誰が演じても役不足になるように思われる。最低でも3時間には及ぶ濃密な大作にしてもらいたいところだ。

 訃報に触れて、すごい人物、すごい人生だと改めて思う。'40年代のハリウッド・スターが、落ちぶれもせず、早死にもせず、20世紀の最後まで一貫して現役であり続けたというのは、本当に驚くべきことである。初の黒人女性ハリウッド・スターというだけで十分に偉大なのだが、彼女はそんな栄光を越えて生き続け、全く唯一無比としか言いようがない存在になった。彼女こそ真の勝利者と呼ぶに相応しい。これは、彼女が“闘う女”であると同時に、結局、どこにも属さないアウトサイダーであり続けたからかもしれない。

 “私は他の誰とも違う(I'm not like anybody else)”
 
 まさに比類のない人だった。そして、本当に美しい人だった。
 安らかに眠ってほしい。



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